ゼロ観念の世界?!

昨日からの微妙に続きです。
観念観念といつも言っています、観念おじさんの僕です。
別に観念が悪いとかって話ではありません。
だけど、そういうことに気づく人って意外と少ないようですね。
それでいつも、そんなことをブツブツ言っているわけです。
なんてったって、世界は観念でできてますから。
それがはっきりとわかったら、結構面白いと思うのです。
特に、生きることを辛いとか感じる人は、そういうことにちょっと思いを馳せてみてもいいかもしれません。

観念も、身の回りのものと同じで、「要るものは要るし、要らないものは要らない」ということです。
ただ、それだけ。
要るか要らないかを自分で決めるのです。
他者や社会、常識、思い込み、過去という観念に決めてもらうんじゃなくて、自分で決めるということです。
まぁ、どこまで行っても観念ですから、とことん考えても、一周してまた元の場所に戻って来ちゃいます。
それがまた面白いんですが。

ところで、もしも観念がゼロになったらどうなると思いますか?
そんなことにはならないのですけども、あえて言うならば、「死んだように生きる」ということでしょうか。
そう言えば、そんな表現をたまに見かけます。
だけど、人生というのは、観念なくして存在できないのです。
そもそも、自分というもの自体が、観念の可能性がありますから。

みんな自分のことを「自分」だと思っているでしょう?
それのことです。
みんな、自分という意識を持っているはずです。
自分で、自分というものの存在を感じているのです。
だけど、そのいつも感じている、いつも思っている、その「自分」とはどれのことでしょうか?
そう聞かれたら、誰も説明できないのです。
自分というものをわかっているつもりが全然、全くわからないのです。
でも、自分には、自分という意識はあって、自分があるという感じがするでしょう。
それってもしかして、思い込みじゃないですかと、観念じゃないですかと。

部屋という四角い空間の中に、自分がいることを想像してみてください。
そこには、「自分」と「自分以外」の空間を分けるための境界線は存在しません。
境界線がないのなら、部屋の中の自分という存在をどう捉えたらいいでしょうか。
例えば、水を1杯グッと飲んで、コップが空になりました。
さっきまでコップに入っていた水は、「水」でしょうか、それとも「自分」でしょうか?
僕の体を構成する分子や原子に名札がついているんでしょうか?
自分が、自分だと思っている、その自分って一体何なのでしょうか?
結局、全然わからないのです。

どう考えたって全然わからないのだけど、それでも僕らは自分のことを自分だと思っています。
そういう意識、観念を持っています。
だからこそ、「自分が生きている」と思えるのです。
「自分」が「生きている」と言うには、まず「自分」が必要です。
だけど「自分」というものがわからないのだから、「生きている」なんて言えなさそうなのだけど、自分では自分のことを自分だと思っているのです。

そろそろしつこいですか?
ダハハハ〜〜
こういうことを考える、思いを馳せるのが、僕には面白いのです。
何周も何周もぐるぐると回って遊んでいるのです。

カラスのお食事処
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