しょぼい談義・3日目

「しょぼい百姓」ってなんだ、という件。
3日目であります。

今日もしょぼい百姓とはなにか、、
どうでもいい話を繰り広げます。

↓過去2回分

目次

しょぼい総合芸術

しょぼい百姓とは
僕の名付けた、ある生活スタイルであります。

ある一点だけをとって
しょぼいかしょぼくないか、
という話ではありません。

しょぼい百姓のメリットは
自身の才能を発揮しやすくなる、
ということです。

才能とは、、
みんなが思うような
圧倒的な才能のことではありません。

みんながイチローにはなれません。

だけど、
全ての人が唯一無二、
オリジナルの才能を持っています。

似た人はいますが
全く同じ人はこの世におりません。

みんながそんな才能を発揮するとき、
この世がどれだけ良くなるか、、
想像できますでしょうか。

それはとんでもなく
面白い世界なのであります。

そして、そのとき一人一人の人生は
オリジナルな芸術作品となっています。

ややこしいことからは離れる

人間にはそんな可能性があるのです。

そんな可能性のない人など
一人もいないのです。

だけど、、
この世を見渡しても
そんな風に生きている人って
あんまりいないように思いませんか。

それはなぜか、、

お金という呪縛、足かせによって
ピラミッドから離れられないからです。

ピラミッド社会から出て、
生きていけるなんて思えないのです。

この社会は不自由です。
だけど、社会の常識の通りに生きていけば
よっぽどおかしなことにはならない、、のかもしれません。

でもそれは
自身の才能を発揮できる可能性に
蓋をすることでもあります。

不自由な社会で
才能を発揮できるのは
ほんの一握り、
ほとんどの人は
自分にオリジナルの才能があるなんて
忘れてしまいます。

でも、、
自分の才能を発揮して生きることって
どんだけ幸せなことか。。

それは究極の他者貢献であり
それ以上の幸せはたぶん、ありません。

みんながイチローにはならない

才能というと
とにかくすごいこと、、
と思うかもしれません。

でも、そんな大袈裟なものではありません。

才能を発揮しても、
お金持ちにはならないし、
有名にもならないし、
地位も名誉も手に入りません。

それは見過ごしちゃうようなしょぼいこと、かもしれません。
周りから見たらなんだそれ、って話かもしれません。
そんなことばっかりやってないで、、とか言われるかもしれません。

そんなようなことです。

比べることをやめたとき

誰かの才能と自分の才能を
競う必要はありません。

なぜなら、それはすでに
完全なるオリジナルだからです。

競技が違うのだから
比べようもありません。

だから、今までの社会の尺度は
必要ありません。

それはお金の有無という
シンプルな尺度です。

お金をたくさん持ってる方が偉い、ってやつ、
そして、お金を稼ぐのに
有利になるようなアレコレのことです。
才能とお金って直接関係がないのです。

自分の才能を発揮し始めたとき、
他人と比べることの無意味さも
同時にわかってくるんじゃないでしょうか。

自分がこの世を構成する一つのピースであり
そうじゃない人はひとりもいないのであり、
それがどれだけ幸せなことなのか、、を感じるのです。

だから、しょぼい

だから、、

しょぼい、という言葉を
あえて使うのです。

しょぼいとか、しょぼくないとか、
どうでもいいのです。

それがどうでもよくなるとき、
ただの名称になる時がいつか来るのです。

今はまだ大多数の人にとって
そうでないけども。

という感じで、、

なんだかよくわからない話になってきましたので
「しょぼい」談義は
一旦これくらいにしましょうかね〜

金沢はおんぼら農園にてネギの土寄せ

ではまた明日〜
いつもご訪問ありがとうございます。

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