しょぼい百姓がただの名称になる時が来る?

少し前に、しょぼい百姓ってなに?
みたいな記事を長々と書いたのです。

長々と書いた割には
なんだかスッキリしなくて
肝心なものが抜けているような気がして。

それで今朝、起きて顔を洗ってたら
思いついたことがありましたので
ちょっくら書き留めておきます。

目次

比較するだけの世界があった

しょぼい、っていうと
どんなイメージでしょうか。

「しょぼい」と「しょぼくない」
どちらか選べと言われれば
しょぼくない方を選ぶ人が多いでしょう。

一般に、しょぼいのは「ダメ」で
しょぼくないのが「良い」のです。

しょぼいかしょぼくないかは
価値観であり、物事を計る物差しの一つです。

この世にはそんな物差しがたくさんありますね。

例えば、、

金がある方が良い、
稼ぐ力はある方が良い、
仕事は早い方が良い、
何でも知ってる方が良い、
何でもできる方が良い、
コミュ力高い方が良い、
イケメンな方が良い、
女子力高い方が良い、
健康な方が良い、
美味い方が良い、、

などなど。。

物差しで測って、
良いか悪いかを常に判定しているわけです。

比較してどちらかを選ぶって
簡単明朗でわかりやすいのです。

いま全人類がそのシステムを採用していて
たくさんの物差しで
目の前の出来事を計って、
自分がどう生きるべきかを決定しています。

その中でも一番重要な物差しは
生と死の物差しです。

生が良くて、死は悪という価値観。

僕らはなるべく、
生に近い方を選択し続けています。

別にそれが「悪い」わけではなくて、
そういう世界に生きている、というだけのことです。

比較することはしんどい

比較して決定するって、
過去の例を踏襲して考える、
みたいな感じで楽なんですね。

脳みそ的には省エネです。

でも、ある問題があります。

比べることによって
自分を無意識に縛ってしまうのです。

金がある方がいいなら、
今、金のない自分はダメだ。
稼ぐ力がある方がいいなら、
今、稼ぐ力のない自分はダメだ。
仕事が早い方がいいなら、
今、仕事の遅い自分はダメだ。

って感じ。

何かを良いと決めた瞬間に
同時に悪いものがこの世に顕れちゃうんです。

そして毎日毎日、無意識にそんなことをしてたら
どうも疲れちゃったって人が
今たくさん現れているのです。

それは自身の無限の可能性を狭めてしまうから。

自身の可能性を潰すことって
とっても不自然で疲れることなんです。

比較しないを生活に落とす

でも、、
比較しないとか無理なんです。

いいこと書いてある本に
人と比べないとか、よく書いてあります。

でも、そんなことできますか。
僕にはできません!

比べちゃうんです。

だから、
生活そのものをなるべく
比較しなくてもいいようなものに
変えちゃうんです。

それがしょぼい百姓という
生活スタイルです。

現代、毎日毎日比較してしまう
最大の物差しはお金、です。

だから、まずはお金の話になります。

どうやってお金のピラミッドから逃れようか、
ということです。

比較しなくてもいい未来があるとしたら

僕らの前には
たくさんの未来への選択肢があります。

どんな未来を選ぶかは自由です。

その中に、
比較しなくてもいいような未来があるのなら、
僕はそれを選びたいのです。

そして、その未来を
今から生きることが
本当に世界をそうします。

それは大河に一滴落とすような人生です。

僕の一滴がいつ大河になるかなんて、
全然知りません。

でも、それがしたいのだから
仕方がないのです。

そしていつか、
そんな未来がやってきたとしたら
「しょぼい百姓」の「しょぼい」に
意味はなくなります。

何が良くて、何が悪い、、という
比較が少しずつ少なくなって、
比較することに意味がなくなった未来、
しょぼい百姓はただの名称になります。

そんな未来から現代を眺めて、
ちょっと皮肉を込めて、
今はそう名乗っているだけのこと、なんです。

そんないいところにトトちゃん、、

あ〜今日も長くなった、、
もっと簡単に書けそうな気がしますねぇ。。

ではまた明日〜
いつもご訪問ありがとうございます。

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