【文字起こし】お願い!ChatGPT先生

今日はYouTubeにアップした動画からの文字起こしです。
文字起こしにはChatGPT先生のお世話になりました。
ちょっと経緯だけ書いておくと…

動画の内容がややこしいので字幕をつけたんですが、字幕をつける時って字幕用のテキストを作るんですよ。
せっかくテキストを作るので、それをブログに流用してもいいな〜なんて思ったのです。
だけど、そのテキストには句読点もないし、改行もぐちゃぐちゃだし、口語体だし、読みにくいわけです。
手作業で修正するのがめんどくさいな〜と思ってた時に、ChatGPT先生のことを思い出しまして、試しに使ってみました。
句読点と改行を追加するくらいは全然問題ないですね。
それからついでにちょっと文語体にしてもらったら、読みやすくはなったけど、ニュアンスは変わっちゃいますね。
できた文章を少しだけ自分で手直しして、なんだか微妙な文章だけども〜〜今日は、ま〜いいか。
という感じです。

目次

僕が喋ってChatGPT先生に文章にしてもらった的な

むらも農園でございます。

『田舎で米を作ったら死なない気がしてきた』という本を一年半ほど前に作りました。
読んでくださった方の中で「これ革命ですか?」と言われたことを思い出しました。
そういう言葉を使う人もいるかもしれないとは思いましたが、私自身では「革命」という言葉を使わないと思います。
世間一般で言うところの「革命」とは少し異なりますので、その点についてお話ししたいと思います。

この本にも書いておりますが、「自分で決める」ということが大事なのです。
「革命」と「自分で決める」がどう関係するのか疑問に思われるかもしれません。
例えば、革命を起こすカリスマが現れ、その人が「こんな風に生きたらいい」「こんなやり方がいい」と熱く語るとします。
みんなが「それは正しい、それはすごい」と言って、その生き方をするようになる。
これでは既に支配されているのです。
革命を起こしたカリスマの言うことを聞いているということになります。
自分で決めていないのです。
その人に従うことは、自分で決めているかもしれませんが。
それがこのピラミッドの世界です。

この本にはピラミッドではない世界のことが書かれています。
誰かが言っているからそれが正しいというのではなく、一人一人が「自分で決める」ことが大事だと考えています。

社会というものは、大多数の人の生き方がその社会のあり方を決めています。
社会がどこかに存在するわけではなく、一人一人の生き方を遠くから俯瞰して見た時に、それを便宜上「社会」と呼んでいるに過ぎないのです。
社会とは一人一人の生き方の集合体なのです。

したがって、社会とは何かを決めているのは、この社会の中で生きる大多数の人の生き方なのです。
現在の社会がピラミッド型であるのは、大多数の人がピラミッド型の社会だという生き方をしているからです。
一人一人がそう思っているかどうかは別としても、彼らの生き方が合わさってピラミッド型の社会が形成されています。
少数の人が「そういう生き方をしてください」と言い、みんなはそれを真に受けて、そのような生き方をしているのです。
教育やメディアからの情報が、上から下へと与えられている状態です。
それを洗脳という言い方をする人もいるかもしれませんが、言い方はそれぞれです。

先の「革命」という言葉についてですが、例えばカリスマが現れて、かっこいいとみんながその人に熱狂して、その生き方を真似しようという空気になる。
それが既にピラミッドなのです。
カリスマがどんなに素晴らしい理念を持っていても、みんながそれに従うとピラミッドの社会になります。
ピラミッドはピラミッドです。

私はピラミッド型の社会を否定するわけではありませんし、それがダメだと言っているわけでもありません。
そういう生き方をする人たちがダメだとも言っていません。
生き方は自由で、人それぞれです。
しかし、もしピラミッド型ではない社会を望むならば、そうではない生き方をする必要があります。
未来の生き方を今から実践するのです。
ただし、そんな生き方を完全に実践すると、現状のピラミッド型の世の中では浮いてしまいます。
要は変人扱いされてしまうのです。
その辺はバランスを取ればいいのではないかと個人的には思います。

未来の生き方をする人が少しずつ増えて、いつの間にかこの世はピラミッド型ではなくなるでしょう。
誰かすごい人が現れて「こういう社会にしよう、これがいい」とみんなが従った社会は、また同じピラミッドです。
ただ違うピラミッドになるだけです。
それを否定しているわけではありません。

しかし、ピラミッド型の社会が面白くないと感じるなら、自分の生き方を自分で決めることが大事なのです。
自分で決めるためにはどうしたらいいか。
意外とみんな自分で決めていないのです。
私もそうです。
それが悪いわけではありませんが、自分で決めるために重要なのは、何が良いか、これは良いことだ、こういう生き方が良いという「良い」という言葉で何を表現しているのかを考えることです。
抽象的に言えば善悪の判断、それは一体何なのかを考えることです。
哲学ですね。

「こういう生き方が良い」という「良い」は何か。
その言葉で一体何を表しているのかを考えることです。
今は多くの人が考えていないのです。
ピラミッドの上から「こういうことが良いんじゃないですか」という情報を与えられ、それをそう思っているのです。
こういう生き方が良いんだ、こういうものを買うのが良いんだ、月曜日から金曜日まで働くのは良いんだと、推奨される生き方が上から降ってきて、それを当たり前と思っています。

毎日いろんな判断をして生きていますが、本当は生き方を自分で決めているのです。
ただ、それを考えていないのです。
誰かが言った「こういう生き方が良いんじゃないか」ということを「そうだな」と思っているだけです。
ほとんどの人は考えていない。
考えるというのは、「良い」という言葉で何を表しているのかを考えることです。
思うことと考えることは全く違います。

それが観念ということです。
このチャンネルでもブログでも、最近書いていないメルマガでも、耳にタコができるほど「観念」と言っています。
「しょぼい百姓になろうチャンネル」というチャンネル名で、百姓と関係なさそうな話ばかりしているので、一体何なんですか、と思う方もいらっしゃるでしょう。
だけど、観念というものに思い当たれば、ゆっくりでも時間をかけてでも、自分で答えを出しやすくなるのです。
実は、自身の人生の大部分が観念に支配されていると気づけば、その後はかなり楽になるでしょう。

自分で決めることが大事です。
自分で決めるためには何が必要か。
究極的には観念に思いを馳せることが重要だと思います。
だけど、それも人それぞれです。
僕はそういう風に思っていますけども、どうでしょうか。

今日はそんな話でした。
ありがとうございました。
むらも農園でした。

元ネタの動画

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