人生をちゃぶ台返し!究極の三つの問い

今日は「究極の三つの問い」ということについて書きます。
これ以外に話す、議論する、考えるべき事はあるんだろうか、というくらいに僕は思っているのです。
なんて言うと語弊がありますが、僕が昔から興味を惹かれるのはずっとこういうことなんです。

先に三つの問いを書いておきます。
一つ、「幸せ」とは何か?
二つ、「生きている」とは何か? 死ぬとは? 死生観の話
三つ、「自分」とは? 自分という存在の謎

これが僕の思う、究極の三つの問いです。
あらゆる場所、状況、時代、文化、人種、主義主張、性格など、そんなものを超えて三つの問いは存在します。
それは、誰もが考える「べき」、通る「べき」、最後の問いであり、同時に始まりの問いです。
そこに完璧に言語化された答えはありません。
いわば答えのない議論を延々とずっとするのです。

例えば、よくある議論を想像してみましょう。
主義主張の異なる人たちの議論は白熱して、両者全く譲らず、ずっと平行線をたどります。
あるいはどちらかが勝者、もう一方が敗者となって禍根を残すこともあるでしょう。
それは言葉による暴力です。
平行線をたどるか、言いくるめるかそれとも言いくるめられるのか、どちらにしても、あまり面白いものではありません。

平行線をたどる議論を実のあるものにするための方法は一つだけです。
お互いの共通の話題を探るのです。
よくある話ですね。
その中でいわゆる観念について考えてみます。

観念とは、自分の主義主張について、なぜそう思っているのか、そのもののこと、です。
ちょっとわかりにくいですし、そんなこと考えたこともないかもしれません。
それぞれの主義主張の奥にある源を探るのです。
お互いにそれぞれの観念を持っているからこそ、その上でそれぞれの主義主張が成り立っています。
ここでも観念の中身はそれぞれに異なりますが、観念の差がその上にあるそれぞれの主張の差につながっている、ということそのものは共通の事実です。
この共通の事実であるということが重要です。
それが共通の話題になるかもしれない、ということです。
ここを共通の話題になるまで深掘りしていくのです。

みんながそれぞれに異なる観念を持っているのは、なぜでしょうか。
それが最初にあげた一つ目の問い、「幸せとは何か」につながってきます。
要は、幸せになりたいのです、みんな。
それぞれが幸せになりたくて、一生懸命なのです。
その過程で異なる観念を拾って、大切に持ち続け、その先に打ち立てたそれぞれの主義主張につながっていきます。
将来、幸せになるために、いつかの不幸を回避するために、観念を拾ったのです。
幸せだった瞬間にその幸せを将来もう一度味わうために、あるいは不幸せだった瞬間にもうそんな不幸せを経験しないように、その観念を拾いました。
幸せの形はそれぞれに違うでしょう。
だけど、その中で共通する幸せを認識することは可能です。
それを議論するのです。
幸せってなんだろうか、ということです。

この一つ目の問いを延々と続けると、二つ目の問いの扉が開きます。
開かざるを得ないのです。なぜか?
なぜ僕らは幸せになりたいのかという疑問が必ず現れるからです。
そして、その答えは、僕らは生きているからです。
これが二つ目の問い、死生観についてです。

そう言えば僕たちは、こうして毎日生きているのだけど、その肝心の生きているということがよくわからないのです。
謎なんです。
生きているということがわからないという事は、「死ぬ」ということも同時によくわからないということです。

だけどみんな、自分が生きていると思っているのです。
そしていつか死ぬと思っています。
だけど、よくよく考えると生きているということも死ぬということも、どっちもよくわからないのです。

例えば、僕が生まれたのが生年月日では「ない」のは明らかです。
生年月日とは、単に母親からオギャーと出てきた日のことであって、その日に生まれたわけではありません。
なぜなら、その前日だって母親のお腹の中で僕は生きていたはずだからです。
そのさらに前の日も、その前の日も同じことです。

命はスイッチのようにオンオフできるものなのでしょうか。
どこかのタイミングでオンになって、いつか死ぬXデーが来たときにオフになる、そんなものなのでしょうか?
だとしたら、僕が生まれたスイッチがオンになったのは一体いつなんでしょうか。
精子と卵子が受精したときですか? では精子と卵子は死んでいたのでしょうか。
僕は一体いつ生まれたのでしょうか。
いや、果たして僕は生まれた事はあるんでしょうか?
生まれたことがないのなら、死ぬことは可能なんでしょうか?
命のスイッチがどこを探しても、どこにも見当たらないのです。

この二つ目の問いもそれぞれの主義主張と違って、全人類に共通する認識となり得るでしょう。
それらは全く関係なさそうに見えるかもしれませんが、観念と幸せとは何か、という問いを通して「常につながっています」。

二つ目の問いを徹底的に考えていく中で、さらに三つ目の問いにぶち当たるかもしれません。
生きる、生きているということを言うためには「自分」というものが必要なのです。
でも、自分というものが何なのか、それがわからないのです。

自分とはなんですかと問われて、答えられる人はいるでしょうか。
そんなことを言われても、自分は自分だよなんて、小学生みたいな言葉しか出てこないかもしれません。
わからないし、なんだか考えること自体がタブーというか、怖さすら感じるかもしれません。
でもみんな、自分が存在するという意識は持っているのです。

自分というものが存在するためには、自分とそれ以外を分けるための境界線が必要です。
部屋に一人座っているとして、部屋という四角い空間の中に自分という存在があります。
四角い部屋を自分という形でくり抜いたもの、それが自分でしょうか。
自分のシルエットのようなものがそこに浮かんでいるでしょう。
そこには必ず、自分とそれ以外を分ける境界線があります。
でもこの境界線が、現実にはどこを探しても見当たらないのです。

自分という存在(に思える何か)は、刻一刻と変化していきます。
皮膚は代謝して垢となって剥がれ落ちていきます。
食べたものは内臓でどんどん変化して、自分の一部となっていきます。
さっき食べたあの食べ物たちは「食べ物」なんでしょうか。
それとも「自分」なんでしょうか。
コップに入った水を飲み干したとき、その水は「水」なんでしょうか。
それとも「自分」なんでしょうか。
自分というものには、何か「自分」という名札がついているんでしょうか。

この三つ目の問いも主義主張の議論と関係なさそうに見えて、ずっとつながっています。
三つの問いと、それらの問題は、別個に存在しません。
宇宙の始まりからその終わりまで、ずっと常に存在していて、今もつながっています。

先ほど部屋の中にいる自分という例えを出しましたが、「部屋」じゃなくて「宇宙」と読み替えても何ら問題はありません。
自分と部屋の関係は、自分と宇宙の関係と同じです。
これは全く同じ話なのです。
自分と宇宙の間に、明確な境界線などないのです。
自分というものは時間と共に成長して、やがて朽ちていきます。
皮膚が垢となって剥がれ落ちるように、形を変えていきます。
それは一体どういうことなのでしょうか?

自分と宇宙の間に境がないのなら、自分とは宇宙の事だったんでしょうか。
逆に、宇宙とは自分のことだったんでしょうか?
無限に広がる宇宙が自分だったなんて言われても、そんなことあるわけがないと思うことでしょう。
でも、いくら探したって、自分というものを存在させる「境界線」は、どこにも見当たらないのです。

不思議な話になりました。
でも、もう一つ、不思議なことがあるのです。
それが自分というものがここにあるという意識です。
自分は自分だよって小学生みたいなことを思った、その感覚です。
自分というのがどこにあるのかよくわからないのに、自分が自分である、というその感覚だけはあるのです。
その感覚、意識とは一体なんでしょうか。

もしかしたら、それが僕ら一人一人の持っている最大最強、最凶にして最高な観念なのかもしれません。

その観念は、主義主張の異なる議論もその一つですが、ありとあらゆる対立問題を生み出しています。
でも、同時に、その観念なくして、人生は始まらないのです。
人生の始まりは、自分が存在するという意識であって、そこにあなたと私という他人と自分という区別が存在するから、争いや好き嫌いやあらゆる人生の甘美も不幸も、この世のあらゆる全てが渾然一体となってそこに存在できるのです。

僕らの認識するこの世のすべては、観念から始まっているのです。
その究極の観念とは、何か。
それが、自分があるという意識なんじゃないかということです。
あらゆるすべては、自分という宇宙の戯れかもしれません。
そこに善悪はありません。
ただそれらは、銀河の間を流れる調べのように、絡み合ってハーモニーを奏でています。
自分も他人も、幸も不幸も、あらゆることを飲み込んで、それは完璧なカオスです。

人生は宇宙の一部です。
それ以上でも、それ以外でもなく、ただそれだけのことなのです。

さて、そういえば何の話でしたっけ?
主義主張の違う人たちが集まって議論していましたか。
それは、なんだか、遠い過去の風景を思い出すかのようです。
ずいぶん遠くまで来てしまいました。

だけど、すべては今にあります。
宇宙まで行ってきたような気分になったりするかもしれませんが、そんな気分になっただけのことでどこにも行ってませんし、いや逆に初めから宇宙にいるんですけども、という話でもあります。
なんだかすごく大事な話という感じもするし、どうでもいい与太話という感じもします。

難しいことばかり言ってないで、今晩はどんなおいしいもの食べようかとか、目の前にいる人と今日をどう過ごそうかとか、そんなことを考えたのがいいかもしれませんしね。
さて、どうでしょうか。

哲学ワークショップ的なのをしようかと思ったり。

ではまた明日〜
いつもご訪問ありがとうございます。

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