この世に全く同じ人は一人もおりません、多分。
これ自分で確認したわけじゃないので、多分としか言いようがないのですが。
まぁ、そういうことにしておきましょう。
全く同じ人がいないのなら、一人ひとりには必ず少なからず差があるということになります。
この差のことを、僕は「才能」と呼んでいます。
才能はジグソーパズルのピースのようです。
一つとして同じピースはなく、はまる場所はただ一カ所のみです。
全員がはまる場所にはまったとき、世界はぐわーっと動き出す…かどうかは知りませんが、問題だらけの現代とは違う世界がそこにあるでしょう。
みんなできること・できないこと、やりたい・やりたくないこと、好きなこと・好きじゃないこと、全部違うのです。
そんな得手不得手がぴったりと組み合わさって、世界は超合理的に回るようになっているのです。
自分がジグソーパズルのピースだと想像したら、社会の歯車になって働いているような、そんな人生になるんじゃないかって感じますか。
それは多分、ちょっと違います。
歯車は替えが効きますが、ピースに予備はありません。
僕にしか、あなたにしかできない生き方があるのです。
そんな生き方を通して、社会全体に貢献しているということです。
そんな生き方はいかがですか。
とても幸せな生き方です。
まぁ、そういう表現をするからには「幸せ」とは何か、すり合わせる必要があるかもしれませんが。
前時代には、幸せの定義は、ピラミッドの上の方から情報として降りてくるものだったからです。
みんながそれを真に受けて、同じような幸せを目指し、実現し幸せになったような気でいました。
それってでもそうでもないよね、なんてみんな気づいているでしょう。
幸せの本質は、他者貢献ともいえます。
他者貢献の本質は、それぞれの才能の発揮です。
究極的に自分にできる事は才能しかありません。
誰かにはできないことが自分にはできるということです。
いつも通り大げさな話になりましたが、特別しなければいけない事はありません。
普通に生きていればそうなるということです。
その辺の話はまたの機会にしましょう。
それで今日の本題です。
そんな才能を発揮する生き方は本当に楽しいのかということです。
結論から言えば楽しいとか楽しくないとか、そんな事は関係ないです。
それと、これとは関係がないのです。
いやいや、才能、存分に発揮できる生き方が楽しくないわけは無いだろうと思うかもしれません。
そっち系の本なんかでも好きなことだけやりなさいとか、楽しいことだけしなさいとかそんな言葉が踊っていますね。
確かにそうとも言えるんでしょうが、最終的にはやっぱり関係ありません。
才能とは、例えば背が高いみたいなことです。
それも世界で一番高いとかじゃありません。
周りの人よりも、ちょっと背が高いということです。
背が高い人も、低い人もいる中で、自分は背が高い方だということです。
背が高いと高いところにあるものが取れますね。
これが他者貢献です。
背の低い人には取れなくて、背の高い人には取れるわけです。
誰かの役に立てる事は嬉しいことです。
だけど、背が高いことを本人が好きかどうかは分かりません。
むしろ背が高いことをコンプレックスのように感じているかもしれません。
だとしたら、高いところにあるものを取るということも、そんなに好きなことでは無いかもしれません。
もちろん、他者貢献を続ける中で、コンプレックスが解消されて、背の高い自分を好きになる、みたいな事はあるでしょう。
そうなることもありますが、そうならない場合もあるのです。
才能とは誰かにはできないけど、自分にはできるということです。
できることの中には、なぜできるのかわからない、ということが多々あります。
教えてもらったこともないし、練習したこともないのです。
だから、そのことに思い入れなんて全然なくて、本人にとってはどうでもいいことだったりします。
自分がそれができるということに全然気づいていないことが多いくらいです。
できることが当たり前すぎて、本人には意識されることもないのです。
そういうのを才能というのです。
才能を発揮するとは、意識すらしていなかった、本人にとってどうでも良いことをするってことかもしれないのです。
なぜなら、他の人にはできないけど、自分にはなぜだかできちゃうからです。
はっきり言って、好きなことでもやりたいことでもないのです。
いや、確かに思い返せば、小さい頃にちょっと興味があったかもしれません。
そんなことを考えたことがあったかもしれません。
才能なんて全然きらびやかなものではなくて、もっと普通のものなんです。
だから僕はこうやって今日も書き続けます。
なんだかよくわからないけども、書けるのだから仕方ありません。
早朝、起きた瞬間から原稿用紙を広げて鉛筆を動かします。
後で空いた時間にパソコンでテキストにします。
僕は世界で一番文章が上手いわけじゃありません。
飛び抜けて何かがわかるとか、頭が良いとかじゃありません。
だけど、それができるのなら、その力はやっぱり使わないといけない気がするのです。
文章を書くのがめちゃくちゃ好きなわけではありません。
別に嫌いでもありません。
作品が出来上がって満足感や達成感、嬉しい気持ちはあります。
だけど、それが好きで好きでたまらないというわけじゃありません。
だけど、毎朝早起きして、今日も原稿用紙に向かいます。
やっぱりやらねばならん気がするのです。
なぜやっているか?
できるからです。
才能とはそういうものです。
そっち系(どっち?)の本が言うように、それが楽しくて大好きなことだったら、それもまた良いでしょう。
そんな人もいるかもしれません。
でも、そうじゃない人もいます。
好きなこと、楽しいことと、できる事は関係ないからです。
やり方を教えてもらったわけじゃないのです。
でも、何故かできるのです。
才能とはそういうもので、それだけのことです。
才能を発揮する人生が楽しいかどうか。
そんな事はわかりません。
楽しいかどうかと関係がないのです。
今日の話は、楽しくしちゃダメだ、ということではありません。
楽しいのも良い、楽しくないのも良いということです。
ではまた明日〜
いつもご訪問ありがとうございます。