ただの才能

自分の書いた文章を読んで、面白いこと書くなぁ、なんて思ったりするのです。
なかなかやるじゃないか、これは一つの才能だな、と。
うぬぼれているわけではないと思うのです。
僕より面白い文章を書く人はいくらでもいますし、そういう勝負をしたいとは全く思いません。
才能とは、一人ひとりの差のことで、背の高い低いみたいなもので、そんなに大げさなものではありません。
僕らはジグソーパズルのピースみたいに凸凹があって、他の人と組み合わさって社会を作っているのです。
理想論とか言われそうですけども。

ただ、この凸凹をなかなか自認できないのです。
それは、自分の才能に気づけないということです。

先日、大西つねきさんの「私が総理大臣ならこうする」という本を読みました。
大西さんの才能がこれでもかと発揮され、そしてその自身の才能を100%使い切るんだ、という覚悟に満ちていました。
今まで自分自身と、とことん向き合ってきたのでしょうね。
本を読むことになったきっかけは、大西さんの座談会に参加したことでしたが、その時にも言っていました。
「言葉と向き合い続けることが大事だ」と。
そう、言葉によってしか何かを固定することはできないのです、多分。
自身の才能もそうです。
別にこうやって文章にしなきゃというわけでもありませんけども。

才能というのは、誰に教わったわけでもなく、練習してきたつもりもなく、なぜだかできるみたいなことです。
だから、なかなか気づけないのです。
考えるまでもなくできるものだから、そんなことは自分にとって当たり前すぎて、自分で意識すらできないのです。

大西さんはずっとお金の仕組みのおかしさについて訴えています。
為替ディーラーをされていた経験もあるでしょうが、なぜそれをずっと続けられるのでしょうか。
同じ経験をした人はたくさんいるはずですが、大西さんのようなことをできる人はなかなかいないのです。
お金の仕組みに興味を持ち、世の中で起きていることと結びつけ、言葉にして説明する。
それをずっと続けているのです。
いろんな経験や誰かに教わったり、いろいろあったでしょう。
でも、それを「ずっと続ける事」は誰に教わったものでなく、ずっと続けるということを練習したこともおそらくないでしょう。
でも、できるのです。
それを才能というのです。

才能を行使して楽しいかどうか、そんな事はわかりません。
才能のない人は一人もいませんが、生まれた時代にマッチするか、必要とされるか、それはわかりません。
言うなれば、ただの運です。
才能を持った野球選手が、もしも野球のない時代に生まれていたらどうでしょうか。
それでも同じように活躍して名声を得ることはできたでしょうか。

もしも僕が、僕みたいなパーソナリティーで何度も生まれ変わっているとしたら、そのほとんどの人生は、ポンコツで役立たずだったでしょう。
そんなに働く必要ないでしょうとか言っちゃうような人は、村の中で浮いちゃうでしょう。
今、僕が思う存分活動できるのは、それが許される今の時代にたまたま生きているからです。
それはただの運です。

だから、今世くらいは頑張ろうとも思うのです。
自分の才能を発揮してやろうと。
輪廻転生とかがあるのかは知りませんが、この人生が僕の使いどころじゃないかという気がするのです。

最近またそんな気分になってきたのは、大西さんの本を読んだからです。
大西さんの圧倒的なその覚悟に触れて、僕も手加減した生き方はもうやめようと思ったのです。
才能を出し惜しみしても仕方ないですしね。

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