非常に問題だらけの世の中であります。
僕はよく知りませんが、戦争しているらしいですね。
恐ろしいことです。
そんなこと、誰も望まないだろうに…。
戦争なんてやってるくらいですから、細かい問題はもう無限にあるって感じですね。
ネットのニュースを開けば、あれやこれやの問題だらけ。
僕らは問題の海にドボンと浸って生きているようです。
大小様々な問題がありますが、それらはなぜ起こるのでしょうか。
それはたぶん、間違っているからです。
一人一人が選択を間違えているのです。
なぜ間違えるのか。
それは考えていないからです。
考えているつもりで思っているだけなのです。
考えるということがどういうことなのか、ほとんどの人はわかっていません。
考えるとは、言うなれば真理の追求です。
真理というと、宗教的な響きがあるかもしれません。
ただ、残念ながら宗教団体に話を聞きに行っても、真理は教えてくれません。
宗教団体は大小様々ですが、おそらくどこへ行っても同じです。
これは宗教団体を否定するものではなくて、宗教団体の役割は別にあるということです。
真理は自身の中にあります。
集団で団体で何かをしたところで、それは真理とは何の関係もありません。
似て非なるもの、というか、全然違うものです。
人はなぜ間違えるのか。
それは、考えていないから、です。
目の前の問題に対して、それしか見ていないからです。
それは枝葉なのです。
末端の現象です。
それは、必ず根っこに繋がっています。
枝葉の部分よりも少しでも根に近いところから考えた方が、間違える可能性は下がります。
それが「考える」ことに近いです。
末端の目の前の事象だけを見て判断するのは、考えるではなく、「思っている」だけなのです。
僕らは、自身の持っている観念というプログラムに沿って動くロボットに過ぎません。
そして、今まで生きてきて、いろんな観念を拾ってきました。
いつもその観念に従って判断しています。
なぜなら、そう思っているからです。
これは良いことだ、それは悪いことだ、と思っているからです。
観念が考えることから遠ざけます。
人間の脳は非常に省エネ、エコなんです。
一度経験した事は、次からは自動運転に切り替えたいと考えます。
そのために、何かに失敗したら次からはこうしちゃいけないな、なんてインプットします。
良いことがあれば、もう一度それをしようとします。
それが積み重なってだんだんとアイデンティティ、自我となっていきます。
みんな、幸せになりたいのです。
生まれてこの方、ずっと幸せになりたいのです。
いや、そうでもないでしょう、なんて思うひねくれた人もいるでしょうが、そうなのです。
そして、幸せな気分を味わったのなら、もう一度それを再現したくなります。
だから、その状況の元になった言動をコピーするのです。
こうしたら幸せになった、という成功経験を繰り返すのです。
わがままばかり言っている人は、小さい頃そうすることで、幸せな気分になれた経験があるのでしょう。
もう一度同じことをすれば、もう一度幸せな気分になれるかもしれないと、今でもどこかで思っているのです。
それが観念です。
とにかく幸せになりたくて、そのためにいつも常に24時間、過去に成功した判断を繰り返しているのです。
だけど、その観念は本当にそうなんでしょうか。
物心ついたときには既に持っていた観念。
その後、成長するにつけて身に付けた観念。
すべて過去に拾ったものです。
過去の経験です。
その時はそう思ったかもしれませんが、それは今でも正しいのでしょうか。
賞味期限がとっくに切れてたりしませんか?ということです。
そんな古い古い、幼少期に拾ったようなものまで、大切に抱え込んでいるのです。
そして、そんな古い成功事例に従って、本当にもう一度幸せを再現できるのでしょうか。
ま、過去は過去であって、1日前だろうが、30年前だろうが関係ないですが。
その観念はまだ自分にとって必要なのか、と思いを馳せるのが、考えるという行為の第一歩で入り口です。
観念というものに気づけなければ、考えることはスタートできません。
そこから真理への旅がスタートします。
乱暴に言えば、僕が思うに、ゴールは3つの問いにあります。
幸せとは何か、生きるとは何か、自分とは何か。
この3つです。
はっきりと言語化できる答えはありません。
だけど、答えは「在ります」と言っておきましょう。
それを考えるのです。
真理というゴールが、どこかにあって、そこまで旅をするわけではありません。
孫悟空が筋斗雲に乗って、遠くまで飛んでいきましたが、お釈迦様の手のひらからすら出ていませんでした。
僕らはどこかに行くことはできないのです。
ただ、遠くまで遠くまで行ったつもりになって、あれ、結局どこにも行ってなかったじゃんという気づきまで、全部ひっくるめて旅と呼ぶなら、それも大いにありです。
真理の追求は気づきの連続です。
ただし、気づきたいと思っている人がいても、僕がその人の代わりに気づくことはできません。
気づきとは、非常に個人的な「体験」だからです。
誰かに教わって、それを覚えることではありません。
それは観念をさらに拾う行為です。
悪いとは言いませんが、無自覚にそれをしているのなら、真理の探求とは逆を向いている感はあります。
ただし、気づきに至る道すじは、完全に人それぞれです。
観念に気づいて、必要のない観念を落としていくのが常套パターンという感じがしますが、逆もあります。
観念を溜めて溜めて溜め込んで、いつか耐えきれなくなって、爆発するように気づきを迎えるみたいなこともあるでしょう。
何もかもどうでもよくなって急に楽になる、みたいな。
結局、何が善いか悪いかなんて、人間ふぜいには判断がつかないのです。
さて、世の中のすべての問題は、一人ひとりが間違えるから起こるのだ、という話でした。
なるべく間違えないようにするためには、根っこ=真理から順番に積み重ねていって、目の前の現象を判断することです。
真理じゃなくても、なるべく少しでも根っこに近いだろう場所から積み重ねるのです。
そうすれば、少しでも間違いは少なくなっていくでしょう。
根本的な解決にはならないかもしれませんけども。
最後に、真理についての一つの側面を書いておきましょう。
それはいつも正しいのです。
「いつも」です。
時代が変わっても、状況が変わっても、人が変わっても、文化が変わっても、国が変わっても、ありとあらゆるタイミングで「いつも」正しいことです。
そんなこと、どこかにあるんでしょうか。
それを考えるのです。
それが考えるということです。
3つの問いは、その助けになるでしょう。
答えは必ず「在ります」から。
