この世のあらゆる問題には、原因があります。
それは、「問題を問題として認識していること」であります。
なんじゃそりゃ、という感じでしょうか。
だけど、問題に対して自分ができる事は何もないと完全に諦めたとき、問題は消えてしまいます。
解決するわけではなく、答えが見つかるわけでなく、問題そのものが消えてしまいます。
究極の諦めは悟りでありまして、それが明らかに観るということであります。
例えば、学校にてテストを受けているところを想像してみましょう。
ある問題が解けなくて、ウンウンと唸っております。
そんな時に一つの考えが頭をよぎります。
そもそも、なぜテストを受けねばならんのか、と。
それは今日がテストの日だからであって、いやそもそも学校なんてものがあるからであって、その前に社会のルールや法律があるからであって、なんで法律なんてものが存在するかというと、おかしなことをする人を取り締まりたい人がいたからであって…。
ん? おかしな人がこの世にいないのなら、テストを受ける必要は無いのか。
いや、ちょっと待てよ、「おかしい」とは何なのか。
どこからが「おかしい」に分類されるのか。
こんなことを考えている自分はいわゆる「おかしい」のか。
あ、そんなことを考えていたら、テストの時間が残り少なく…。
こんな感じでですね、いろいろ考えてみても何も解決しないのです。
もちろん、テストの問題が解けるようになるわけでもなく、世の中の仕組みがちょっと変わるわけでもありません。
ま、学校に行くのをやめてしまえば、テストを受ける必要もなくなりますが、それ相応のリスクといいますか、この先の人生は少し変わることになるでしょう。
「変わる」こと自体に良いか悪いかはありませんから、その良し悪しを自分で判断して自分で決められればいいのかもしれません。
だけど、大多数の人にとって、それはなかなか難しいことのようです。
「決める」ということが重要なのです。
今まで通り学校に行き続けるか、それとも学校と決別してしまうのか。
それを決めるのです。
みんなそれを決めずに、ただ現状維持しているだけ。
何も考えていません。
いや、僕は、学校に行くなと言っているわけではなくて、疑ったこともない、考えたこともない、そのことを意識して自分で決める、という話です。
どちらの選択もオールオーケーであって、重要なのは「決める」ことです。
ま、学校に行くか行かないかのような、現状ではあまりにも大きな選択はラスボスだと思って後回しにした方がいいでしょうけども。
少しずつ自分で決められる人が増えています。
それが時代の流れなのです。
僕みたいな一般ピープルまでもが、そんなことを声高に叫び始めているくらいなのです。
今はまだ世の大多数の人には伝わりませんけども、理解する人が少しずつ増えて、それが百匹目の猿に到達した時、急にみんなが理解し始めるでしょう。
その時、世界は変わっています。
変える必要もなく、変わっています。
それは一人ひとりの選択が変わるからです。
自分で決め始めるからです。
その時、変えること自体に労力を使う必要は感じていません。
問題自体が消えてしまうのです。
やらなきゃならん事は残りますが、徒労を感じるようなことではなくなっているでしょう。
それが明らかに観るということです。
それが悟りです。
みんながそうなると、この世界は一変します。
そう思うと、悟りってのも、なんだか楽しそうじゃないですか。
実は難しい話じゃないのですよ。
そして、そっちの方が楽な感じがしませんか。
合理的で、なんならコスパだって高いのです。