ドラマや映画なんて見てますと、いろんな登場人物がそれぞれの役柄を持って登場します。
正義感溢れるベテラン刑事とか、熱血教師とか、非常にわかりやすいパターンですね。
自分の職業というか、その社会的役割の中に、本当の自分が埋没しているかのようです。
往年のドラマや映画は、一人ひとりのキャラクターが大げさに描かれているのでしょうか。
それとも、その時代の人々は、実際そんなふうに生きていたのかもしれません。
この人物はこういう人なんだ、というステレオタイプで描かれていてわかりやすいのです。
正義感溢れるベテラン刑事の設定を今日の題材にしてみましょう。
彼(というからには男です)は今でこそ強面の刑事さんですが、オギャーと産まれて純粋無垢な頃ももちろんありました。
世の中の善も悪も知らない赤子時代を経て、彼は少しずつ観念を身につけていきます。
両親から教えられ、いじめっ子と対決し、世の不正を見聞きして、彼の正義感は確固たるものとなっていきました。
そして、憧れの刑事となります。
刑事になってからは、先輩刑事について回って仕事の作法を学びます。
刑事の勘、自白を促す緩急の付け方、後輩に対する態度、世の中の眺め方…。
彼は観念を拾い続けます。
おそらくですが、彼は死ぬまでそのキャラクターを通すでしょう。
拾いまくった無数の観念は鎧です。
自身を守ってくれるかもしれませんが、同時に身動きが取れなくなります。
年老いて、病院のベッドで、死の直前まで、彼は観念のことを自分だと思っています。
純粋無垢な赤子の頃は、無限の可能性を持っていましたが、今は観念の範囲でしか世界を見ることができません。
まぁ、あんまり適当な刑事さんというのも困りますから、そういう意味では彼の生き方は正しかったのかもしれません。
また、すべてのことに善悪はありませんから、どういう生き方が良いとか悪いとか、そんなことも言えません。
だけど、彼の人生にあったはずの無限の可能性はどこに行ってしまったのでしょうか。
自由な発想、自由な毎日、自由な人生…。
もちろん、そんなことを考えられる時代ではなかったでしょう。
みんなが自分に与えられた社会的な役割を生きていて、それが当たり前だったのです。
厳格な父親、頑固なラーメン屋のオヤジ、金に狂った政治家…。
みんな何かに取り憑かれているのです。
〇〇でないといけない、〇〇であるべき、観念にがんじがらめにされているのです。
ところで今日の話、登場するのが男性ばかりな気がします。
はっきりと男と書かなくても、なんとなく男くさい感じがしませんか。
男は真面目ですから、〇〇でないといけないと教えられ、お前の役割はこれだ、なんて言われるとそう思い込んじゃうのです。
そして、真面目に律儀にそれを演じ続けるのです。
かわいいもんでしょう。
いわゆる男性性の時代というやつです。
昔のドラマや映画に出てきそうなわかりやすいキャラクターって、最近はずいぶん減ったように思いませんか。
劇中の登場人物にしてもそうだし、リアルでもそんな人って少なくなったでしょう。
〇〇じゃなきゃ、絶対にいかん!なんて声高に叫んで、暴れ出しそうな人はあんまり見なくなりました。
みんな丸くなりましたね。
ネットに潜伏しただけのことかもしれませんけども。
時代は、変わっているのです。
〇〇もいいけど、××もいい、と。
今はそんな人が増えたでしょう。
みんな観念を少しずつ手放しているのです。
時代はちゃんと流れています。
いわゆる女性性の時代が垣間見えています。
なぜだか分かりませんが、そういう流れの中を僕らは生きています。
あんまり頑固なことを言っているよりも、ちょっとこだわらないくらいの方が楽なんです。
そして、昔と比べて豊かな時代ですから、自分の身を守る必要性が減ったということです。
昔は、こうせねば生き残れないという事情が、みんなにあったのです。
それで必要な役割をそれぞれに割り振っていたのです。
人類はずっと集団で生きてきたのです。
今は生きていくのに、昔ほどの労力を必要としません。
そして今から、もっと楽になっていくことができます。
楽になると、役割を捨てることがやりやすくなります。
もう、自由になっても大丈夫な時代なんです。
それぞれの無限の才能に気づく時代です。
時代はどんどん加速していきますよ。