100%の人生なんて言葉を云々の続き

「100%の人生」というものがあると言われたら、あれ?自分の人生は今何%なんだろう…、なんて思ってしまうかもしれません。
確かに、そういう捉え方も一つあるかもしれません。
だけど、そんな言ってみれば不安を煽るような言い方は好きじゃないのです。

なぜなら、それは怪しい霊感商法と変わらないからです。
相手を一旦貶めてから、自分の都合の良いように操ろうとするのです。
みんなが100%の生き方をすれば、みんなの集合体である社会も当然100%になっています、と僕は主張しています。
100%の社会という未来は僕の希望です。
でも、あなたはそんな希望を持っていない、あるいは興味がないかもしれません。
だけど、僕は言葉巧みに耳当たりの良い言葉を並べ、あるいは不安にさせ、ときには感情に訴えて、あなたに興味を持たせようとするかもしれません。
それって霊感商法と全然変わりません。

でも、むらもさんは良いことをしてますよね、なんてふうに言ってくれる人もいるかもしれません。
いやいや、何が良いか悪いかなんて、人間ふぜいに決められるものではありません。
その時は良いことだと思っていたけど、後になって振り返ると悪いことだったとか、その逆とかよくあるでしょう。
そんな事は誰にもわからないのです。

だから、全てを疑って欲しいのです。
疑う事は良くないこと、みたいな雰囲気があって、疑うことに罪悪感を持ってしまう人が多いかもしれません。
だけど、自分で考えて自分で決めるのが重要なんです。
疑わない事は、考えることを放棄するということです。
あらゆる全てを疑うのです。
「あらゆる全て」です。

あらゆる全てを疑い尽くしたなら、それ以上疑う必要は一旦なくなるかもしれません。
盲信はいけないということです。
自分で考えて自分で決めるのです。
考えることなく信じないでください、ということです。

それは自分で意識していない観念について想いを馳せることです。
観念はいつも、24時間休むことなく働いていて、僕らの人生をコントロールしています。
人生は観念によってできています。
全てを疑うのです。
観念によって隠された、100%の人生を生きるために…。

あれ、また話が戻ってしまいました。
結局どういうことなんでしょうか。
100%の人生という言い方は好きじゃないけど、やっぱりその言葉を使うってことでしょうか。
むらもさんは、読者の頭を混乱させるために、この文章を書いているのですか!なんて怒る人もいるかもしれません。
まぁ、ある意味、その通りでもあります。
自分で意識していない観念で、カチコチに固まった考えを、そしてその意識していない観念から今も生まれ続けている人生を、ブンブンと揺さぶりたいのです。
揺さぶられるのが嫌だ、ほっといてくれって人には、僕の書く文章は合わないでしょう。

あぁ、書きたい事は山ほどあるのですが、今日もタイムオーバーです。
また明日にします。
明日は100%の人生という概念はそもそも必要なのか、という話。
そう言えば、これって一番最初の話だったんですが、まだ覚えてますか?

スクスク育ってくださいませ〜
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