100%の人生についてのさらに続き

「100%の人生」なんて言葉は必要ないのです。
それは、みんな既に100%だからです。
オールオーケー、何の問題もありません。
大丈夫です。
社会がどうこうだ、未来がどうこうだ、知ったこっちゃありません。
問題を問題とする感覚のことを問題というのなら、この宇宙に問題がある必要は特にありません。

問題というものと戯れたかったら、それもまた良しということです。
自分で問題を設定して、自分で解決策を探れば良いのです。
人生とは人間社会とはそういうものであります。

ただ、そんなことを言っていたら、この世のゲームが始まらないのです。
ドラクエみたいなものです。
ドラクエをスタートしても、何の問題もない世界だったら、それはつまらないのです。
王様は悩みもなくて、大魔王は現れず、姫様はさらわれず、お金はたっぷり、レベルはマックス、外に出てもモンスターの1匹も現れないようでは何にも面白くないのです。
人生にはそういう側面もあるということです。

真理、本当の事について、言葉で表現する時、必ず矛盾が現れます。
それはコインの表と裏が同時にあるような状態です。
そんなありえない状況を言葉にするということです。
ピカソの絵みたいなものです。
よくわからないことになるのです。

この世界を眺めたとき、そうやって、必ず二つの見方が存在します。
1つは、僕たちの普通の見方です。
人それぞれ、世界をどんなふうに見るかは違います。
たまに独特な見方をしている人がいて、天才とか変人とか言われたりします。
だけど、そんなもの全部ひっくるめた見方、立場、態度がまずひとつです。
それは人と同じ数だけありますが、天才とか変わってるとか、そういう表面的な部分に騙されてはいけません。
それをひっくるめて一つです。
もう一つは、真理の側から眺めた見方です。
こちらは、語るべきことが何一つありません。
先ほどのつまらないドラクエの状態です。
何の問題もなく、すべてが達成されていて、すべてが完璧です。

それぞれの状態、立場、立ち位置のことを非真理、真理とでも表現してみましょう。
非真理側から見れば、 この世は問題だらけです。
その問題を解決するためには、100%の人生を生きることが必要かもしれないという説を僕は唱えています。
ただし、100%の人生なんて言葉を使った瞬間に、人生は何%なのかという概念をこのように生み出すことになります。
実はまたひとつ、問題を生み出すのです。
それはただ、世界をややこしくしているだけなのかもしれません。

真理側から見れば、この世には何の問題もありません。
問題だ、問題だ、解決せねばならん問題だ、と騒いでいる人がいることすらも問題ではありません。
すべてオールオーケー、大丈夫です。

僕は、みんなが100%の人生を生きないのが問題だと騒いでるおじさんです。
騒ぎたいのだから仕方ありません。
どうしてもそういうことが目に入っちゃって、気になってしょうがないのです。
だから勝手に騒いでいます。

僕の文章にはその時、その瞬間の立場があります。
さっきの真理側、非真理側の立場です。
双方の立場を行ったり来たりしながら文章を書いています。
同じ言葉を使っていても、その時によって意味するところは全く違う可能性があるということです。
当然、文章はややこしく長くなります。
なるべく頻繁に変えないようにはしていますが。

木を見て森を見ずという言葉があります。
この「木」と「森」を行ったり来たりするので、同じことを見ているのだけど、木としてみるか森としてみるかで、結果として表現は全然違うものになります。
なんなら、木というものを見るのも、顕微鏡で覗くようにもっと近づいてみてもいいかもしれません。
ミクロの世界ですね。
森も、もっと離れて見ても良いのかもしれません。
森は離れれば山になり、もっと離れるなら大陸になり、地球になり宇宙になります。
それはマクロの世界です。
ミクロもマクロも、どちらも同じものを見ています。
見る立場が違うだけです。

僕の文章はミクロとマクロを行ったり来たりします。
矛盾が生まれるのは当たり前です。
全く逆の表現になったりします。
だけど、それらは同じものです。
全く逆のことを言っていても同じものです。
見る立場を変えているだけのことです。

ミクロとマクロは同じものです。
それらは同時に存在します。
ミクロで見れば、コインの表で、マクロで見れば、コインの裏に見えたりします。
だけど、それは同時に存在して、同じものです。

さっきはマクロのことを真理と表現しました。
この際だからもう少し言い換えましょう。
真理とは、宇宙、無限、神、ワンネス、空、無、サムシンググレート、愛、精霊、のことです。
歴史の中で、いろんな人がいろんな呼び方をしています。
ミクロとは、僕らが問題だと騒いでいるこの観念の世界のことです。

だけど、それらは同じものです。
同時に存在する、コインの表裏です。
見方や立場が違うだけで同じものです。

100%の人生って言葉が好きじゃないけど、僕がそれを使う理由、なんとなく伝わりましたか?
「100%の人生」と言うと、そういう余計かもしれない概念を作り出してしまうんです。
でもマ〜、僕がそうしたいって言うんだから、しょうがないのです。
それは些細な問題なわけですが、それを大袈裟に書いたのが今日の文章なのであります。

金沢はおんぼら農園さんの稲刈り手伝いへ行ってきました
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