異性の好みっていろいろありますね。
背が高い人がいいとか、髪は長いほうがいいとか、いろいろ。
だけど例えば、目が3つある方が良い、なんて言う人はいません。
当たり前ですが。
それはなぜだと思いますか。
今日はそんな意味不明な話です。
目が3つある方が良いとか、目は多い方がタイプとか言う人はいません。
それはみんな、目は2つだからです。
言うまでもありません。
当たり前です。
そんなこと意識すらしたことないでしょう。
いや、それはちょっと違いますね。
「意識できない」と言うのが正しいでしょう。
逆に、背の高い人がいい、なんて言う人はいるでしょうが、身長の差はなぜ意識できるのでしょうか。
それも言うまでもありません。
みんな身長が違うからです。
もしも人類全員の身長が同じだったら、目の数と同じように身長もまた、意識される事はなかったでしょう。
これが観念というやつです。
あれとこれを比較して、こっちの方が良いと判断するための基準やルールを、みんながそれぞれに持っているのです。
背の高い人が好みとか、髪の長い人が好みとか、そういうことです。
だから、観念とは比較して判断することとも言えます。
そして、いつも通り大げさな話で言うと、幸せと不幸せを比較して判断すること、ということができます。
こういう状況、出来事は幸せだと、観念が定義づけているわけです。
でも、目の数が認識できない話と同じで、幸せかどうかを認識するためには、まず不幸せな状態がないと幸せを認識することすらできないのです。
だから、小さな赤ちゃんには幸せも不幸せもありません。
そういう認識がないのです。
そこにあるのは、動物と同じ生存本能です。
自我の芽生えとともに、幸せというものが意識されていきます。
初めは、おそらく生存本能を満たすための欲求からでしょうか。
お腹が空いているときに食べることができたら幸せ、そうでないなら不幸せという感じです。
自分を守ってくれる存在が近くにいるなら幸せ、 そうでないなら不幸せとか。
そういうところから始まって、人それぞれの欲求が開花していくのでしょう。
よく書いていますが、僕らはジグソーパズルのピースであって…という話。
才能とは一人ひとりの差であって、才能のない人など一人もいない…という話。
そういう一人ひとりの凸凹、個性につながっていきます。
僕らはそれぞれに無数の観念を持っていますが、その起源を探っていくと、そんなところに遡るんじゃないかと。
そしてそれが、人それぞれのピースの凸凹とも密接に関係しているのが、なんとも面白いなぁと思うのです。
さて、何の話でしたか。
こんなことを書きたかったわけではないような気がするのですが…。
マァ〜また、そのうち書くでしょう。

ええ感じに見えますが、奥の方は7割方ペタンコに倒れています。
かなり辛いですが、この1枚だけで済んでよかったです…。