究極の3つの問いというのを勝手に思っています。
幸せとは、何か、生と死とは何か、自分とは何か、という3つの問いです。
その答えは完璧に言語化することはできません。
だけど、ただ1つの答えは在ります。
言葉では説明できないけども、答えは在る、というのが答えです。
昨日、悟りということについて書きましたが、この3つの問いと比べたら、悟りなどちっぽけなものです。
3つの問が解ければ、という表現も変だけども、その時には悟りの正体も、おのずと明らかになっているでしょう。
いやー、しかし、こんなことよく書くようになったものです。
なんだか、恥ずかしくて書けなかったのです。
あるいは書いちゃいけないと思っていました。
言語化しようとすると、めちゃくちゃ当たり前のことを書きまくることになったりして、一体何を書いてるんだ、という気分になったりするのです。
当然、その内容は伝わらないだろうし。
でも、人は変わるものですね。
話が逸れました。
言うなれば、悟りなんちゅうものは問い続けること、考えることの、その途中の道すがら、中継地点でしかないのです。
3つの問いをグルグルと考えていれば、あ〜!って、気づくことになるのです。
ま、みんながみんな、考えてるだけで悟りの境地にたどり着くとも思いません。
その旅路は、人それぞれだからです。
そして、その旅は自分で行く必要があります。
皆と一緒には行けません。
あるところまで到達すれば、実は最初から皆と一緒だったのだと気づくでしょう。
あんまりこんなことを書くのは好きじゃないのです。
説明すればするほど、悟りというものがすごいもの、というイメージになりそうだからです。
それはすごく得難いものという感じになってしまうのです。
それは僕の望むところではありません。
確かに得難いものではあるのですが、難しくはありません。
例えるなら、騙し絵に似ています。
若い女の人にも見えるし、おばあさんにも見える、みたいな騙し絵ってありますよね。
あの絵を初めて見たときのことを思い出して、想像してみてください。
ファーストインプレッションが若い女の人だったとしましょう。
この絵には若い女の人が描かれている、と。
でも、毎日のように眺めていると、この絵、どこか変なのです。
若い女の人のは間違いないのですが、どこか余計な線とか全体の微妙なラインとか、ちょっと不自然なところがある。
それでも若い女の人には変わりありません。
その絵を見返すたびにそんなことを思ってたんですが、若い女の人だと思い込んでいますから、その解釈が覆る事はなかなかありません。
だけど、不自然に思えた部分のことも忘れかけたある日、ふと気づくのです。
あれ?おばあさんが見える!と。
いや、そんなことはない、若い女の人がここには描かれているはずだ。
もう一度、絵の中に若い女の人を探します。
確かこの辺に顔があって…なかなか見つけられませんが、やはり若い女の人が描かれています。
おばあさんは一体何だったのかと思って、同じように探してみると、少し時間がかかりますが、やはりおばあさんもそこに見つかるのでした。
悟りってそういう感じです。
一回わかっちゃえばどうってことないのです。
ただし、すぐに忘れちゃうのです。
でも、時間をかければまた思い出せるというか。
慣れれば行ったり来たりもしやすいのです。
そのベースには常に3つの問いがあります。
特に最後の問い、自分とは何か、自分という存在の謎です。
これを考え続ければ、当然のように、世界の見え方は変わるんじゃないでしょうか。
まぁ、あんまり考えすぎると鬱になるかもしれませんので、お気をつけください。
何事も度が過ぎるとアレですから…。

モーゼみたいに田んぼが左右に分かれるのです。