役に立つ人、立たない人

昨日からの微妙に続きです。
いろんな人がこの世にいます。
それぞれが才能を持ってこのように生まれます。
一人ひとりにできることできないことがあって、それらを組み合わせると、この世はジグソーパズルのようです。

ぜひ、自分にできることをしてほしいと思っています。
没頭するというか。
毎日毎日、その才能を発揮してほしいと思います。
もちろん、24時間それをするわけではありませんし、才能は一つではありません。

だけど、昨日も書きましたが、才能を発揮したところで食えるかどうかはわかりません。
それは、その才能が上手にできるかどうか、という話ではありません。
今の時代に、その才能の需要があるかどうかがわからないということです。

あんまり聞きたくない残酷な話かもしれません。
だけど、今野球で大活躍している選手が、もし江戸時代に生まれてたらどうなっていたでしょうか。
今くらいの名声を得ていたでしょうか?

実は才能とは、そういう社会的な成功とか、周りからの評価とか、誰かの役に立てるかとか、関係ないかもしれないのです。
だから、みんな自分の才能に気づきにくいのです。

この世の全員が才能を存分に発揮する、素晴らしい時代が来たとします。
でもそれは、全員が世の中の役に立っているということではありません、残念ながら。
でも、全員がこの世に必要なのです。
それが人類の持つ多様性です。

現在、ほとんどの人はその才能に気づかず、発揮できず、自分の人生に没頭できません。
だけど、問題はそこではないのかもしれません。
誰かの役に立たなくてはいけないという思い込み、観念こそが、才能を形にすることを妨げているのかもしれません。

誰かの役に立たなければいけない、世の中で活躍できる人になりなさい、そんなことばかりしてないで、そんなことをして一体何の役に立つんだ、使えない奴だなぁ…。
などなど、そういう観念を僕らは持っています。
その観念が自分を縛り、周りにも影響を与えます。

これもよく書いていますが、才能を発揮する人生が楽しいかどうかはわかりません。
その才能が、世の中の役に立てているのかどうか、全然わからなかったりするからです。
しかも、世の中のほぼ全員が、誰かの役に立たなければならないという、共通の観念、常識を持っています。
世の中の役に立っているのかどうかよくわからないことを、毎日やり続ける自分なんて、ほとんど理解されないのです。
それでもその才能に没頭してくださいと、僕は残酷なことを言っています。
人類にはそれが必要だからです。

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