群れなくても大丈夫

こんなことを書くと嫌がられるかもしれませんけども…。
僕は、「村」を作ってはいけない派です。
自給自足的な、農的なコミュニティー的な、理想郷的な共同体を作る、みたいなことをする必要はもうない派です。
いや、もう、むしろやってはいけない派です。
もう時代は変わっているのです。

僕たちは、ピラミッド型の社会にどっぷり浸かって生きてきました。
そこには管理する側とされる側がいて、どちらの立場にも悲哀を感じます。
そんなことにほとほと嫌になった人が、村のような共同体に思いを馳せるんだと思います。
僕も昔はそういうことに興味がありましたから、その気持ちはよくわかります。

村を興そうとする初期の人たちは、立派な素晴らしい理念を持っているはずです。
そして、それは一人では実現できません。
みんなでそれをするからこそ、価値が増すのです。
だけど残念ながら、人が増える過程でそれは必ずピラミッドになります。
それは避けることができません。
理想郷の中に管理する人とされる人が現れます。

僕たちは今までずっと、生まれてこの方、物心ついてずっと、ピラミッドの中で生きてきました。
そういう生き方しか、みんな知らないのです。
だから、知らないうちにそういう生き方の癖を身に付けています。
そして、多くの人は自身の癖を認識することができません。
だから、人が集まると自然とピラミッドになります。

ピラミッドではない世界を作ろうと理想を掲げていたはずなのですが、人が集まることによってそれはピラミッドになってしまいます。
そういう生き方しか、みんな知らないからです。
今、この社会がピラミッド型をしているのがその証拠です。
社会というのは、どこかに実体があるわけではありません。
そこに生きる人の群れを、遠くから俯瞰して眺めたときに、それを社会と呼んでいるだけです。
今、この社会がピラミッドなのは、今、生きている人がピラミッドな生き方をしているからです。
そんな人たちの群れを遠くから見ると、当然、ピラミッドの社会に見えます。
今、この世界の現状がピラミッド社会になっていることが、人が集まるとピラミッドになってしまう証拠なのです。
人と社会は、完全にイコールだからです。

だからまずは、そういう生き方から逃れる必要があります。
その方法の一つが、前回まで書いていたプチビジネスです。
自身の才能を生活という形で表現して、それを少しずつお金に変えていくのです。
そうやって生活を少しずつ独立させていくのです。

ただし、そもそもプチビジネスじゃなくても、今の時代に経済的な意味で独立して生きるのは難しくありません。
すべてのもの、必要なものは簡単に手に入ります。
世の中空き家だらけ、ピカピカの古着だらけ、スーパーに行けば食材がずらり、むしろ余ってたくさん捨てています。
便利な車や家電も安く手に入ります。
生きていくだけなら、大してお金はかかりません。
家族の状況だとかによりますから、一概には言えませんが、プライドや見栄にこだわらないのなら、生きる事は難しくありません。
ほんの百年前と、現代の生活を比べてみてください。
今は誰も野垂れ死にしないような、豊かな社会なのです。

人類は、ずっと群れて生きてきました。
そうしないと生きられなかったからです。
そして「村」という形態で、その生き方はまだ僕らの記憶に残っています。
だけど、もうそれもいらない可能性があります。

群れて生きることにはメリットがあります。
ただし、そこにはデメリットもあります。
そして、現代では群れずに生きることも可能になりました。
そんな群れない生き方にもメリットとデメリットがあります。
だから、良いとこ取りでいいんじゃないでしょうか。

双方のメリットだけを享受できる、あるいはそうしてもいい時代なんです。
だけど、先に村ありきということを決めてしまうと、村のメリットとともに、デメリットも引き受けることになります。
村にするかどうかを決める必要はなくて、現代はとにかくいいとこ取りのできる時代なんです。

だから、「良い」とは何か、という哲学の議論が重要になってきます。
良いとこ取りが良いのはわかるけど、「良い」が何なのかわからないのだから、みんな困っていて、議論はいつも平行線なわけです。
だから僕はいつも、ややこしい哲学にふけっているのです。

そういえば、村のデメリットのことを書いていませんね。
また、そのうちに書きます。
とりあえず、それまではこの記事を読んでみてください。

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