どこまでも観念

ピラ抜けシリーズを一応書き終えて、ちょっと一段落です。
別に計画性があったわけでもなくて、なんとなく書き始めて、なんとなく連載になって、なんとなく終わったって感じですけども。
それでも、たまにこういう大作的なものが完成すると嬉しいものであります。
個人的には最後が良かったですね。
幸せの定義といいますか。
現代は、幸せがどういう状態かをある程度決められている、といいますか。
現代の幸せには型があって、その型にハマりに行く生き方、といいますか。
そういうのって、もしかしたら全然関係ないのかもよ、という終わり方だったんですが。
いかがでしたでしょうか?

結局、いつも観念の話になっちゃうのです。
観念観念、うるさい僕なのです。
だけど、世界は観念でできているのだから、仕方ないのです。
幸せの定義も観念だし、それを実現する方法も観念です。
何をどこまでいっても、観念です。

もしも、この観念というものが全部なくなっちゃったらどうなるでしょうか?
世界はどうなっちゃうでしょうか?
それは自分が世界だと思っている、「そう認識しているもの」がないという状態です。
ちょっと想像してみてください。
その世界は美しいでしょうか?
それとも美しくないでしょうか?
あるいは、美しいとか美しくないとか、それすら存在しないのでしょうか?
ちょっと思いを馳せてみてください。

ふと、映画「マトリックス」を思い出しています。
人々は幻想の世界を生きていて、主人公は赤と青の薬で、そのまま幻想に残るか、そこを脱出するかを自分で選択します。
夢から醒めたその世界をどう感じるかは、人それぞれでしょう。
そこでも、新たな観念が発生していきますから。

コインの表裏みたいなものです。
表と裏で見えるものは違いますが、1つの同じコインを見ていることに間違いありません。
それぞれの観念が、それぞれの世界という幻想をそれぞれに見せています。
その幻想が消え去った瞬間、という世界があります。
そんなことを感じたことが何度かありました。
僕にとっては、まぁ貴重な経験といいますか。
貴重なのか、なんなのか、なんと言っていいのか。
言葉ではちょっと表せません。

瞑想、断捨離、モーニングページというのが、僕には役に立ったようです。
これらの3つの手法は、それぞれにアプローチが違って面白いです。
モーニングページというのは聞き慣れないかもしれませんが、『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』という本の中で紹介されていた方法です。
興味があれば調べてみてください。

観念でできた世界をコインの表、そうでない世界を裏とするなら、裏の世界にどうやって気づくか、みたいなことかもしれません。
ただし、表だろうが裏だろうが、同じもの、同じ世界を見ています。
騙し絵と表現したほうが近いかもしれません。
若い女の人にも見えるし、魔女みたいなおばあさんにも見える、みたいな騙し絵がありますよね。
そのどちらかの見方にしか、みんな気づいていないということです。
ある人は若い女の人だと思っているし、違う人はおばあさんだと思っているわけです。
だけど、同じ一枚の絵を見ているのです。
世界とはそういうことなのです。
だから、話はこじれるし、話は合わないし、議論は平行線だし、喧嘩になるし、戦争になるのです。

断捨離は、自分が観念でできていることを教えてくれました。
瞑想は、観念がもたらす思考を眺める練習ともいえます。
モーニングページは、とにかく積極的に思考に突っ込んで、どっぷりはまる感じ。
結局どんな方法であれ、観念を観察して、観察して、観察するのです。
そうすると、そうでない世界が突然そこに現れているというか。
「観念を見ている自分」を見ている「自分的な存在」に気づくというか。

まぁ、こういう話は新たな観念を生むだけかもしれません。
観念が悪いわけではありませんし、何かを特別な体験であると決めるのも観念なわけで。
やっぱりどこまでいっても、この世は、人生は観念なのです。
チャンチャン。

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