僕は断捨離が好きです。
断捨離は面白いのです。
初めて断捨離と出会ったのは、十数年前のことでした。
やましたひでこ先生の最初の本、その名も『断捨離』という本を手に取ったことが最初です。
その本がめちゃくちゃ面白くて、3分の1ほど読んだあたりで、まるで雷に打たれるように、ビコーンと頭の中でいろんな回路が一気につながってしまったのです。
僕はそのとき、何か重大な、とんでもなくすごいことに気づいてしまったのです。
当時の僕の部屋はもので溢れていました。
ものはたくさんあるけど、整理はされていて、割と綺麗だったと思います。
収納上手なタイプなんでしょう。
大量のCDやレコード、たくさんの楽器、壁にもいろんなものが飾ってありました。
部屋中、所狭しと僕の好きなもので溢れていました。
だけど、それらは僕にとって本当に必要なものではなかったのです。
だって、CDは大量にあるけど、聴くことはほぼありませんでした。
楽器もたくさんあるけど、それも弾かずに埃をかぶっているだけ。
ものだけが部屋に詰め込まれて、僕の時間は止まってしまったような空間でした。
断捨離を読んで、ビコーンと気づいたのは、なぜそんな部屋になっているか、なぜそうなるようにしてきたかということでした。
僕の部屋を埋め尽くしていたのは、僕が自身のアイデンティティーを表現するためのものたちでした。
それは、昔、偉い人が死んだときに一緒に埋葬された奴隷と似ているような気がします。
僕という人間を表すために、大量のものが必要だと、自分で思い込んでいたのです。
だから、時間と労力とお金を使って、たくさんのものを収集したのです。
それはいわば、自分を守るための鎧でした。
自分を守るために必要だと思っていたのです。
だけど、自分を一体何から守ろうとしていたのでしょうか。
実は、敵なんていないということに僕はビコーンと気がついたのです。
敵だと思っていたのは、僕が思い込みによって作り出した幻想だったのです。
そういうことに突如、強烈に気がついちゃったのです。
それは衝撃でした。
なんだ、自分を守る必要なんて全然なかったんだと。
それから2週間ほど、部屋のものを捨てたり売ったり処分し続けました。
周りから見ると、一体何があったのか、大丈夫かと、心配になるくらいだったでしょう。
ものが減って、生活はとっても快適になりました。
すべてが軽くなりました。
でも、劇的な変化はまだ起こっていません。
それはまだ表面上だけのことでした。
その頃のエピソードがあります。
僕は大量のCDを所有していました。
その数なんと、2000枚ほど。
僕は音楽が大好きで、世界中に聴きたい音楽が山ほどあったのです。
今みたいにサブスクなんてありませんから、週末になると中古CD屋さんをめぐって面白そうなCDを買い漁っていました。
2000枚のCDは、きれいにジャンルに分けられ、五十音順に並べられてコレクションされていましたが、残念ながら、それを聴くことはほとんどなくなっていました。
「こんなCDも持っている自分」を表現するために、僕はそれらを所有していたのです。
断捨離を知ってから、そんなCDたちを2000枚から600枚くらいに減らしました。
大事なコレクションと思いこんでいましたが、自分を大きく見せる必要はなかったんだと気がついたんです。
要は、別に好きでもないものがたくさんあったのです。
レアだからとか、音楽好きを自称するならこれは持っておかなきゃならんだろう、みたいなのがたくさんあったんです。
だから、これは聴きたいというものだけを残しました。
だけどその後、半年ほど経っても、棚からCDを選んで聴くことはやっぱりありませんでした。
部屋はものが減ってだいぶスッキリしましたから、聴かないCDが600枚もまだ残ってるとやっぱり気になってきます。
残った600枚の精鋭たちもやっぱりいらないんじゃないかと思い始めました。
そして、さらに半年後、600枚のCDは50枚に減らされました。
残ったのは、本当に本当に自分が聴きたい、大好きなCDだけ。
2000枚から50枚ですからね…。
今までどんだけ鎧だらけだったんでしょうか。
そしてついに、その頃からまた、手がCDに伸びるようになりました。
また、好きな音楽を聴くようになったんです。
思い返せば、何年も部屋でゆっくり音楽を聴くことなんてなかったのです。
音楽っていいなぁって、改めて感じました。
久しぶりにCDを買うようになったりもしました。
いやー、我ながら良い話ですわ。
だけど、断捨離の真髄は、こんなものではないと思うのです。
続きはまた明日にします。