農的生活シリーズ、書きました。
連載ものは楽しいですね、読み返してもちょっと楽しいです。
いつもの自画自賛ですが。
ところで、「サピエンス全史」という本を読んだのです、漫画版で。
これがめちゃくちゃ面白くて。
ちなみにオリジナルのほうは読める気がしないので、手に取ったこともありません。
数年前にベストセラーになってた本ですが、興味のある方はぜひ読んでいただきたいと思います。
漫画版なら読めますよ、たぶん。
ところで、昨日までのシリーズを読んで、思うことはありませんか。
僕なんか、こう思うのです。
自由になるまでの道のりが長すぎませんか、と。
搾取機構付きの資本主義システムから逃れるために、生活をコンパクトにするわけです。
そのためには、常識にとらわれた意識を自分で観察して、自分で変えていく必要があります。
意識が変われば、大抵の場合、支出は当たり前に下がります。
支出が下がれば、収入も自分で決める幅が出てきます。
普通は収入なんて自分で決められないのです。
これぐらいの年収が普通だって、みんな思っているでしょう。
そういう観念を持っているわけです。
だから、それだけ稼ぐことを優先するのです。
それは、常識に囚われた観念です。
そこのところをまず変えないといけないのですが、この時点でハードルが高いです。
そこからさらに田んぼをやる、しかも、なるべく小さくやることを考えるのです。
そんなことを考える人は、世の中にいませんから、参考になるノウハウも知見もほとんどありません。
自分で考えて、工夫してやる必要があります。
これもハードルが高いです。
どうにかこうにか、そこまで行くと「田舎で米を作ったら死なない気がしてきた」って感じになるのです。
やっと、言うなれば、心に平安を得るのです。
で、ここまでの工程、長すぎませんか、と。
実は、『サピエンス全史』によると、人類が農耕を始めた時から、こうなっていたらしいのです。
農耕はとにかく労働なのです。
いろんな工夫をして、働きまくらねばならんのです。
そんな毎日が嫌だから、他人にやらせようというジャイアン的な人が現れて、特権階級ができていったのです。
いや、その気持ちめっちゃわかります。
農耕、大変ですもんね。
毎日体を動かしたり、収穫の喜びがあったり、良い面もありますよ。
でも、その工程、長すぎませんか、と。
『サピエンス全史』を書いたハラリ先生的表現をすると、農業革命によって人類は農作物の奴隷になったのです。
人類は麦の世話を、朝から晩までずっとするようになったのです。
そのかわり、人類は数を増やしました。
だけどその分、生活はひどくなりました。
食べ物のバリエーションが減って、少ない種類の作物に頼るようになりました。
僕が「米さえ食ってりゃ死なない」とか言ってるやつです。
狩猟採集の頃は結構豊かな食生活だったみたいですね。
もちろん、人類の数は少なかったのですが。
農業革命には、他にもいろんなデメリットがあったようです。
だけど、僕らは農業革命以降の世界しか、もちろん知らないのです。
現代でも、農業革命以前からの狩猟採集民はごく少数残っていて、そういう話なんかを聞くと、彼らは初めの初めから平安の中にいるように思えます。
彼らは幸せも不幸もないような生活の中にいるのです。
食べ物はその辺にありますから、採って食べて、後は遊んでいるわけです。
そうやって生きて死んで行きます。
ただ、それだけのように見えます。
幸せも不幸せもないような、それは「幸せ」に見えます。
農業革命以前はみんなそうだったのかもしれません。
現代の狩猟採集民がそういう毎日を実現しているのは、資本主義がないからだと僕は思っていたのです。
だけど、そこには農業革命の有無も関わっている可能性があるということです。
農業革命によって、人類は心の平安を得ることが難しくなったのかもしれない、ということです。
だから「田舎で米を作ったら死なない気がしてきた」なんて、本をわざわざ書く必要が出てきたりもするのです。
農業革命は一旦始まってしまうと、もう後には戻れません。
増えてしまった人口は、狩猟採集ではもう食べていけないからです。
この感じも、お金に支配された今の時代と似てる感じがします。
ハラリ先生は『サピエンス全史』の中でこう言っています。
人類が増えたことだけを繁栄の物差しにするべきではなく、個々の幸福度を物差しにするべきだ、と。
確かにその通りだけど、農業革命以前に戻る事はもうできません。
僕らにできることは、今と昔のいいとこ取りくらいでしょうか。
バランスを取ることでしょうか。
そのためには、思い込みを一つずつ外していくことが必要です。
そして、農業というのは果たして善であるのか、そんなことを考えてみたい今日この頃なのです。