いつも書いてますけども、この世界は観念なのです。
昨日、「農は善なのか」ということを書きました。
なんて考えるという事は、そこに何か思い込みがあったということです。
それって思い込みだったかもなんて気がついて、それはどういうことだろうかと考え始めたのです。
僕はどうも「農は善いことだ」と思い込んでいたのです。
そして今まで、その思い込みに気づくことなく生きてきました。
ところが『サピエンス全史』という本を漫画版で読んで、気づかされたのであります。
これが観念です。
「どれ?」って感じかもしれませんね。
僕は久しぶりに大きな観念を発掘した気分です。
思い込みは、思い込んでいるから「思い込み」なのであって、自分で気づいていないのです。
それについて考えることもないし、考えたこともない、意識すらできないのです。
でも、そういう無数の思い込みをもとに、自分の思考や毎日の判断が生まれています。
思考や判断の積み重ねは生き方になり、人生になります。
そういう観念を人それぞれに無数に持っていて、それこそが人生を決めているのです。
なのに、気づくこともないし、アクセスすることもないのです。
いや〜、面白いのですよ。
気づいていなかった自分の観念を発掘するのです。
人によっては、見たくもない、怖い、意味がわからないと思うかもしれません。
でも僕にとって、それは大好物で、そういう意味では僕はやっぱり変人で、頭のネジが足りていないのかもと思ったりします。
普通は、変化したがらないという本能を持っているからです。
観念に気づくと人生はおのずと変化しちゃいますからね。
だから、僕がまだ気づいていない観念に気づかせてくれる本とか、人とか、情報にはすごく興味があります。
そういうのを面白いなぁと思うのです。
人生が変化していくのがたまらなく面白いです。
人間にはホメオスタシス、恒常性という本能があって、変化を好みません。
今までこのやり方で生き延びてきたのだから、これからも同じようにしていくのが生存確率が高いだろうと判断するわけです。
僕はどうもその機能が弱いみたいですね。
原始時代だったら、おかしなことを試して早死にしているでしょう。
でも、現代は人類史上最も豊かな時代です。
誰も野垂れ死にしないのです。
だから、僕みたいにおかしなことを試しまくっていても、全然問題ないのです。
生まれる時代にたまたま恵まれた、ということです。
人間には一人ひとり差があります。
生まれる時代によってはポンコツだったりします。
僕は現代以外に生まれていたら、ほぼポンコツだったでしょう。
僕が今普通に生活できているのはたまたまです。
どんな時代にも対応できるようなあらゆる才能を、人類の誰かは持っていて、時代が変わったとき、人類の多様性の価値は発揮されます。
時代がどんなふうに変わって行っても、その時代に対応できる人がいるのです。
というわけで、みんな自分の才能を発揮した方が人類のためになります。
好きなことをしたほうがいいですよ、ということ。
ほとんどの現代人は、好きなことをするために、思い込みを外す必要があります。
思い込みを外すためには、まずその思い込みという存在に気づく必要があります。
それがいつも書いている「観念」ということです。
「観念せいや」の観念です。
思い込みにとらわれていることを「いい加減に観念せいや」ということです。
もう観念して、好きなことをしなさいよ、と。
自分の才能を発揮しなさいよ、ということです。
偉そうにすいません。
でも、そういうのも楽しいですよ。