昨日の記事を読み返して思うことがあります。
むらもさん、何でも疑いすぎじゃないですか、と。
自分で思っちゃいましたね。
何でもかんでもホンマかなぁって、いつも思っているわけです。
まぁ、本当のことを知りたいというのは、裏を返せばそういうことです。
目の前の世界のことを本当じゃないと思っているから、「本当のことを知りたい」ということになるのです。
ちなみに「疑う」と言うと、他人を疑うみたいに思われるかもしれません。
警察が容疑者を疑う、他人の言うことを全然信じない、みたいな感じ。
だけど、そういうのとはちょっと違います。
僕が疑っているのは、自分が見ているこの世界、いや、この世界を見ている「自分」のことです。
同じものを見ても、それぞれに違うことを思ったりしますね。
見る側が違うからです。
僕は、世界を良いとか悪いとか感じている、その自分は本当だろうかと、疑っているのです。
疑うのは、他人ではなく、自分ということです。
他人のことは、疑っても仕方ないというか、それは午後のワイドショーにしかなりません。
誰かの噂話とか、欠席裁判とか、そういう類のやつです。
たまにそういうのも面白いかもしれませんが、あんまり興味はありませんね。
僕らは目の前の真実に常にラベルを貼っています。
善悪のラベルです。
「これは良いことだ」「そっちは悪いことだ」と。
自分にとっての善悪を判断しているわけです。
その判断のもとになっているのが、毎度おなじみ観念です。
もう耳タコですよね。
究極の善悪の根拠は生存欲求でしょうか。
「自分が生き続けられそう」なことを「良い」と感じて選択するわけです。
無意識に、あらゆる選択がそういう基準でされています。
誰かにバカと罵られて、怒ったり、カチンときたりするのは、バカと思われると生存可能性が少〜し下がるからです。
自分は価値のある人間だと思われていた方が、生存確率は上がりそうですよね。
無意識に瞬時にそういう判断が行われています。
そんなのは当たり前だ、と思われるでしょうか。
だけど、僕はそれすらも疑いたいのです。
なぜって、死にたくないのはわかるけど、今「生きている」ということがよくわからないからです。
僕は自分が生きていると思っているわけだけど、それって本当でしょうか。
そこにどういう根拠があるのでしょうか。
何をもって「生きている」と言うのでしょうか。
生まれる、死ぬ、ということが何なのか、わからないのです。
そんなの当たり前だから、と済ませられるなら別にいいのです。
でも、僕はそういうことが気になるのです。
気になるというよりも、向こうから飛び込んでくるように目に入っちゃうのです。
そして、もっとわからないことがあって、「自分が生きている」と言うときの「自分」というのがよくわかりません。
自分が自分だと思っている、その「自分」というものは、本当に自分なんでしょうかと。
僕はそれを一番疑っているのです。
そこがもしも違っていたなら、この世界は全部、文字通り全部、ひっくり返っちゃうのです。
文明も社会もシステムも、一人ひとりの生き方も考え方も、問題も解決も、ありとあらゆるものがひっくり返っちゃうのです。
人類はもしかしたら、ずっと間違っている可能性があるのです。
根本の根本の根本から、思いっきり間違っている可能性があるのです。
問題だと認識していることを、根っこの方へずっとさかのぼっていったら、いつかその問題は消えてなくなります。
問題が解決するのではなく、答えが見つかるのでもなく、問題そのものが消えてなくなります。
問題を生んでいたのは自分だった、と気づく時が来ます。
自分で問題を生み出して、それを解くのに一生懸命になっているのです。
それはとても滑稽です。
でも、みんなそうなんです。
こうして文章を書いている僕だってそうです。
みんな同じです。
そんなことに気づいたら、もうおかしくて笑っちゃいます。
笑うしかない、じゃなくて、おかしくてたまらなくて、もう笑っちゃうのです。
まぁ、そんな感じで疑い続けているわけですが、もう一つ疑うことを忘れてると思いませんか?
それは「疑うことを疑う」ということです。
ダハハハハ〜〜。
これ、超壮大なギャグなのですけども、わかっていただけますか?
まぁ、解説が必要なお笑いというのも寒いものではありますね。
ナハハハ〜〜。