哲学を言葉で表す

昨日に引き続き、今日も哲学ワークショップのことを考えています。
「考えるための気づき」というタイトルのワークショップですが、どうもそれだけでは分かりにくいような気がします。
それは、なぜ気づきが必要なのか、というところです。
気づきには目的も到達点も何もないのですが、そこをあえて目の前の現実との妥協点のようなものがあると、分かりやすいのかなと思っています。

例えば、気づく目的を「自由に生きるため」というふうに設定してみようと思います。
気づきにはあらゆることが含まれていて、そんな設定は全く必要ないのですが、ワークショップを分かりやすくするための便宜上のことです。
自覚的に自由に生きようと思ったら、確かに気づきは必要な気がしますから、間違いではなさそうではあります。

ところで、僕の本なんかにも散々書いていますが、僕はなるべく金を稼がないようにしています。
なんて言うと、ちょっと語弊がありますが、金をなるべく稼がなくても良いような生活態度を心がけているというか、金を稼ぐかどうかすらも自分で決めるということです。

みんな、生きるために必要なあらゆることを、お金で調達しています。
死なないために必要なもの、生きていくための毎日の課題を、お金を払って解決しています。
例えば、食べるものがないと死んでしまいますから、お金で食べ物を調達します。
安心して寝るところがないと辛いですから、お金で住むところを調達する、というようなことです。

お金を使って生きることが当たり前になって、お金の利用範囲はどんどん広がりました。
例えば、見栄やマウントもその中に入ります。
家は立派なほうがいいし、車は大きいほうがいい、服はブランドがついて、外食は高いほうが良いとされているわけです。

現代の、お金を使った見栄というのは、どこから来てるんでしょうか。
おそらく、CMでしょうか。
みんな、お金が欲しいですから。
「みんな」というのは、CMを流している側も同じ、ということです。
お金で自身を死から遠ざけたいのです。
そのCMや世間の空気や常識や普通に、すべてを決めてもらっています。
なるべく大きな家に住むのが当たり前で、良い車や服を持って、良いものを食べて、自慢したくなっているのです。

そんなことを自分で自覚的に決めるのが、自由ということです。
自分にとって必要なものは必要だし、不必要なものは不必要です。
それを自分で「考える」のです。
そうやって考える範囲は人生のあらゆる場所に及んで、聖域やタブーなんて本当はありません。

まあ、いろいろと説明すれば、気づくことの必要性は分かりやすいかもしれませんが、気づきは全然つまらないものになってしまいます。
気づきは、自由も不自由も、善も悪も、相反するすべてのことが同時にごちゃまぜに存在するのです。
オールオーケーなんです。
だから、気づきの効用はこういうことです、なんて説明は野暮なんです。
だけど、入り口としてはちょっと分かりやすい、ということです。

という感じで、表現の仕方を迷っております。
また、ぼちぼち考えてみます。

毎晩8時・むらもラジオ更新中〜

目次