昨日からの微妙な続きです。
あらゆることを僕らはジャッジしています。
自分にとって、善か悪かを判断しています。
目の前の小さなことから、人生という大きなものまで、全てです。
常に四六時中、僕らはジャッジを続けています。
その大部分は無意識に行われています。
以前、強烈な話を聞きました。
ある人が、お葬式なんかに行ったときに可笑しくて仕方ない、と言うのです。
笑いをこらえるのに必死だ、と。
非常に不謹慎な話に聞こえるかもしれません。
常識で捉えるなら、もちろんそういう認識になるでしょう。
ただ、彼(おじさんでした)の気持ちもよくわかるのです。
おそらく、彼の意見を代弁するなら、こういうことです。
そもそも、僕たちは生まれたことがあるのでしょうか。
もし、生まれたことがないのなら、死ぬこともできません。
なのに、みんな誰かが死んだことを悲しんでいます。
生まれて生きている、という設定のもと、人生は進んでいって、ある日、Xデーに人は死ぬということになっているのです。
ここまで読んで、怒りを感じる人もいるかもしれません。
不謹慎にも程があると。
ただ、僕は誰かが亡くなれば悲しいですし、心を痛めます。
昨日まで元気だった人が動かなくなる=死ぬのは事実です。
その時に、僕たちは生まれたことはあるんだろうか、なんて思索は何の役にも立ちません。
だけど、僕は同時に彼の感覚もわかるのです。
人生はありとあらゆることが「設定」なのです。
人生そのものもそうです。
設定がなければ、人生というもの自体が存在できないのです。
ある日、僕は生まれました。
僕は生を得ました。
ある日とは、いつのことでしょうか。
多くの人は、自身の誕生日を答えるでしょう。
誕生日に僕は生まれました、と。
では、その誕生日の前日、僕は生をまだ得ていない状態、つまり死んでいたのでしょうか。
いや、そんなことはありません。
誕生日の前日、僕は母親のお腹の中で「生きていた」はずです。
さらにその前日も、そのまた前日も、僕は「生きていた」はずです。
僕は一体いつ生まれたんでしょうか。
精子と卵子が出会った瞬間だ、という人もいます。
だけど、精子も卵子も生きています。
死んでいません。
僕は一体いつ生を得たのでしょうか。
僕とは一体何者なんでしょうか。
多くの人が命というものを電気のスイッチのように想像します。
命のオン・オフです。
それが、生まれて死ぬ、ということだと思っています。
だけど、命というスイッチがオフからオンになった瞬間がどこにも見当たらないのです。
命にオン・オフはあるんでしょうか。
それとも、宇宙というたった一つの無限の命が形を変えながら、ただ生きているだけなんでしょうか。
宇宙という大きな命を意識という観念で細分化して、それぞれに「人生がある」という設定で、この宇宙を多角的に味わっているだけだとしたら。
彼の言い分にも、それなりに分があるように思いませんか。
どうでしょうか。
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