お久しぶりに「やっぱり観念せえや」

昨日からの微妙に続きです。
昨日は、お葬式に出ると笑いをこらえるのに必死なおじさんがいる、という話でした。

人生という設定、自分という設定。
この世はただの設定かもしれません。
だけど、みんながそれを完全に信じ込んでいる世界では、それは真実です。
おじさんにとっては、それが滑稽に見えるのでしょう。
自分で設定したルールに、きちんと真面目に生涯をかけて従っていく人々を、お葬式で見るのです。

ところで、喜怒哀楽という感情の中で、「喜」と「楽」はポジティブで良い感情とされています。
一方、「怒」と「哀」はネガティブで良くないイメージです。
だけど、実際には、それらの感情に優劣はありません。
すべて同じものです。
なぜなら、それらはすべて「設定」がないと生まれないからです。

さて、勘の良い人は、「設定」という言葉が、いつもの「観念」のことを指していると、気づいているかもしれません。
この世界は、すべて観念でできているのです。

冒頭のおじさんが感じているのは、観念のない世界です。
観念のない世界が「善い」わけではありません。
もしも観念のない世界が善い、ということなら、それを観念というのです。
〇〇が善い、ということを観念というのです。
おじさんは、観念のない世界を知っているのです。

映画「マトリックス」でいえば、赤い薬を飲んだ世界といいますか。
しつこいですが、どちらの世界が善いとか正しいとかはありません。
そして、どちらも真実です。

観念や設定まみれのこの世界が「いかん」と言っているわけではありません。
オールオーケーです。
すべては混然一体となって、ごちゃまぜで同時に存在します。
夢も現実も、コインの表と裏も、良いも悪いも、生も死も、すべてが同時に存在します。

だけど、僕らはどちらかの状態しか認識することができません。
夢を見ながら現実は生きられないし、コインの表と裏を同時に見ることはできないし、生きている間に死ぬことはできません。
そういうことはできない設定になっているのです。

だからこそ、僕たちは人生を生きることができます。
設定=観念がなければ、同時に人生も存在しません。
だから、観念をなくすとか無理なんです。
「生きながら死ぬ」という表現をする人もいます。
その感じはわかるけど、実際に生きながらは死ねません。

だから「観念せえや」なんです。
いつかどこかで諦めるしかないのです。
観念を追求して、追求して、追求して、最後は観念するしかないんだと悟るのです。

「観念せえや」って、久しぶりに書いた気がします。
江戸っ子みたいで、なんだか気持ちが良いのです。
観念せえやってなんだ、という人はリンクを貼っておきますので、そちらも併せてどうぞ。

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