毎日は淡々と過ぎていきます。
いろんな毎日があるでしょう。
そんな毎日に、意味もなく無為に過ごしたとか、思うがままに活動したとか、いろんな意味を貼るでしょう。
だけど、どんな毎日にも良い悪いはありません。
オールオーケーです。
起伏の少ない毎日も、ジェットコースターみたいな毎日も、いろいろあるでしょう。
だけど、どちらにしても毎日は過ぎていきます。
毎日の中身は、グレートーンから鮮やかな虹色まで、色どりもさまざまでしょうが、毎日が過ぎていくということ自体はいつも淡々としています。
そこの部分はあんまり変わりません。
そんな淡々と過ぎる毎日が、たまらなく愛おしく感じる時があります。
なんと言ったらいいでしょうか。
それは、ただの毎日なんです。
何か良いことがあったから、そう感じるのではありません。
ただ、ぼんやりと眺めているような感じ。
理屈でも言葉でもない感じ。
そういえば、ちょっと似た感覚を思い出しました。
それは、遠くにいるだろう同志を想う感じ、です。
僕は自由に生きたいと思っています。
そして、僕と同じようにそんなことを思っている、似たような人が日本中にいるだろう、ということを知っています。
彼らは、僕も含めてですが、勝手に自由にやっています。
群れる必要はありません。
群れなきゃいけないのなら、それは不自由だからです。
群れるとか群れないとか、そんなことはどっちでも良いのです。
そんな彼らがどこかにいる、というだけで十分なんです。
遠く離れていようが、つながっているような気がします。
だけど、実際にそんな人と交流を持つひとときも、また良いものです。
たった一言、たった一度でも、伝わるもの、残るものがあります。
毎日を淡々と過ごすには、少しの勇気が必要です。
彼らがその勇気を与えてくれます。
僕はマイノリティーだから、いつも圧倒的な数の力の影響を受け続けています。
そんな中で、自分を保つ必要があります。
馬耳東風、ぬかに釘、のれんに腕押し…。
ふにゃふにゃののれんである必要があります。
この世界でふにゃふにゃで居続けるのには、少しの勇気がいるのです。
いつか、そんなことすら諦めてしまうかもしれません。
愛おしい、淡々とした、ただの毎日に戻るのです。
すべては無為であった、と悟るのです。
でも、今はまだその時には早いでしょう。
やらねばならんと思っていることがたくさんあります。
僕は自由に生きたいと思っていて、それは毎日の僕の生活に、自由や不自由のラベルを貼る、ということでもあります。
愛おしい、淡々とした毎日から見れば、それはなんと不自由な日々でしょうか。
でも、僕はまだ、そうせずにはいられないのです。
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