僕はなんで「三つの問い」なんていうものを考えるようになったのでしょうか。
ちょっと振り返ってみると、やっぱり「考える」ということを始めたからだと思います。
よく書いていますが、「思う」と「考える」は違う、という話です。
ここでいう「考える」という言葉は、一般的な「考える」とはかなり違う意味になっています。
いわば「思う」と「考える」は方向が逆なんです。
一般的には両方とも似たような意味合いの言葉です。
だけど、観念というものに注目すると、その意味は全く違うものになります。
いつも書いていますが、観念とは物事を判断、ジャッジするための基準・物差しです。
それを、みんながそれぞれに無数に持っています。
観念は、何も意識しなければ、歳をとるほどに増えていく人が多いかもしれません。
アインシュタインは「普通とは18歳までに集めた偏屈のコレクションだ」と言ったそうですが、それも観念についての発言かと思います。
僕らは観念を使って物事を判断しています。
観念は判例みたいなものです。
過去の事例に照らし合わせて、今回も同じように判断するようです。
判例は、自身の経験によるものもあるし、誰かに教えられて、それを信じ続けているものもあります。
実際の判例もそうですが、時代によって変わっていきます。
時代が変わって、判例が覆されるということがあります。
常識は変わっていくのです。
時代とともに、判決という判断の前提条件が変わっていきます。
何を良いとするか、悪いとするかが変わっていくのです。
僕らは毎日、膨大な量の判断、ジャッジを繰り返していますが、それらの元になるのが観念です。
だけど、その観念は真実では無いのです。
時代や状況によって簡単に変わってしまうからです。
僕らは、人を殺してはいけない、という共通の観念を持っていますが、時代によっては、たくさんの人を殺して英雄になる、ということもあります。
そんなふにゃふにゃで曖昧な土台の上で、僕らは判断、ジャッジしています。
不安定な土台が観念です。
そんな観念をもとに目の前のことを判断します。
そして、その判断結果を正しいと「思って」いるのです。
いつも通り説明が長いのですが、これが「思う」ということです。
みんな自分の「正しいと思う」ことを信じているのです。
でも、その土台になっている観念はふにゃふにゃです。
何かあれば直ぐに変わってしまいます。
そんな脆弱な土台の上に立てた結論でもって、みんな論争をしているのです。
自分はこう「思う」というのを言い合っているのです。
だけど、それぞれの主張の源は、それぞれのふにゃふにゃな観念です。
議論とは、それぞれの観念のコレクションを見せ合っているに過ぎないのです。
さて、ここまでわかれば「考える」は簡単です。
「思う」の逆を行くのです。
続きはまた明日にしましょう。
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