言葉は伝わらない

一昨日からの続きです。
究極の三つの問い、そして「考える」と「思う」は違う、という話でした。
こういう話題、皆さんはどんなふうに感じるでしょうか。
ややこしい話だと思いますか?

確かに説明すると長くなっちゃうんですが、実際にわかってしまえば特別に難しいことはありません。
ただ、その問いに答えるには、何か気づきのようなものが必要です。

気づくとは、見えない一線を超えるような感じです。
例えば、あれこれ考えて何かが満タンになって、いつか爆発するように、不意に気づくのです。
一度気づいてしまうと、もう元には戻れません。
小さな気づきから大きな気づきまで、いろんな気づきを経て、少しずつ進んでいくような感じです。

ただし、進むといっても、前なのか後なのか、良いのか悪いのかわかりません。
「進む」なんていうと、「進歩」という言葉もあって、良いイメージがあります。
だけど、それは単にそういうイメージで、真実ではありません。
そんなふうに「思って」いるだけです。

「考える」とは、全部、すべて、あらゆることがとにかく「思って」いるだけだったと気づくことでもあります。
あまりにも全てがそうだから、なかなか気づけないのです。
自分が「思う」ことで規定していることが、あまりにも多いのです。

それにしても、こういうことは伝えるのがとてつもなく面倒なのです。
僕の文章や話を聞いて、「確かにそうだな」なんて思った人も、たぶん僕とは感覚がちょっと違います。
例えば、「全部思っているだけ」の「全部」という言葉が伝わらないのです。
「全部」という言葉の認識が違うからです。
「全部」とはこういう感じ、と自分で思い込んでいるのです。

「全部」という言葉すら、知らないうちに自分で決めています。
「全部」という言葉でイメージすることは、みんな同じようで全然違います。
言葉って、とっても不思議なんです。
全然つかみどころがないのです。

辞書なんてものがあったりするのだから、言葉の世界は探求されているように思えたりもします。
だけど、そういうことじゃないのです。
辞書に言葉の意味は載っていません。
そこにあるのは言葉の言い換えであって、本当の意味ではありません。

だから「全部」という言葉は伝わりません。
言葉がみんな違うから、気づきをシェアすることはできません。
本当は僕らは「気づきそのもの」でしかないのだけど、そこに至ることができません。
壁があるのです。
いや、壁を自分で作っているのです。

スピリチュアルとか好きな人には、なんとなく伝わるでしょうか。
こんな話、どこかで聞いたことありませんか?
たぶん、その話と同じことを僕は話しています。
表現の仕方が違うだけです。

壁なんて別にいらないのだけど、実はその壁がないことには人生というものは存在できません。
だから、それはとっても大事なもの、とも言えるのです。
さて、いつも読んでくれている人は気づいているかもしれません。
壁とは観念のことです。

いつもいつも観念の話をしています。
もう耳タコでしょうか。
だけど、まだまだずっと同じ話を、手を変え品を変え続けることになるでしょう。
ま、僕の趣味みたいなものです。

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