自由と不自由

2025年もやりたいことがたくさんあります。
特に今年はいろいろと忙しくなる予感です。
楽しくなるといいなぁと思っています。
どうなることでしょうか。

多分、僕はさらに自由になると思います。
自由とは、何か状況が変わってそうなる、ということではありません。
自分が自由であるということ、自由を選択するその態度のことです。

僕は今までその態度を抑えてきました。
自分の思っていることを全部実行に移しちゃうと、すごい変人になっちゃうからです。
あえて、世の中とのバランスを取っていたのです。

でも、2024年、そういうのがどうでもよくなっちゃいました。
夏頃、大西つねきさんの座談会に行って、大西さんの本を読んでやられたんです。
話や本の内容というよりも、その生きる態度にしびれました。

それで、このブログも忖度なしに書き始めたわけです。
今まで誰に忖度していたのかも、よく考えるとわかりませんけども。
周りからの目が気になっていたんでしょう。

ちなみに、アクセスは減りました。
やっぱり多くの人が、こういう話に興味がないのです。
みんなが誰もが必要とするような情報ではありませんね。
その延長でラジオ、PodCastも始めましたが、そっちもどうなんでしょうね。
一般的には必要とされない番組となっております。

人気が出るならそれもまた良いでしょうけども、そんなことはないだろうな〜と思いつつ、ボチボチやっております。
まぁ、そういう事は置いといて、という感じ。
人気があるから続ける、みたいな態度って、「不自由」だと思いませんか?

自由とは状況のことではありません。
人気のある・ないは状況です。
みんながわかってくれる・くれないも状況です。
それは単に自分がそう望んでいる、自分にとって都合の良い状況を夢想しているに過ぎません。

極論ですが、監獄に閉じ込められていることも状況です。
いや、僕らはルールや仕組みや世の中や、いろんな見えない監獄の中に、今まさにいるのです。

見えない監獄を監獄たらしめるのは、一体何でしょうか。
いつも読んでくれている人は、うすうす感じているでしょうか?

皆さん、耳タコのアレです、観念です。
僕らは「〇〇でないといけない」と思い込んでいるのです。

観念が見えない監獄なのです。
多くの人は、制度が悪い、政治が悪い、誰々が悪いと考えるでしょう。
でも、そんな状況が変わったとしても、みんな自由にはなりません。

自由とは状況ではなく、自分の態度のことなのです。

毎晩8時・むらもラジオ更新中〜

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