自由って何でしょうか。
自分の好きにすることでしょうか。
でも、自分の好きなようになんて全然できません。
昔は、お金がたくさんあれば自由になれるんじゃないか、なんて思ったものですが、そうでもなさそうです。
そもそも、たくさんのお金を手に入れることもできませんでしたけども。
おっと、いつも通り、話が逸れそうです。
自分の好きにする、わがままを通す、要望を受け入れさせる、欲望を叶える…。
そういうことを自由と呼ぶのでしょうか。
でも、自分の自由は誰かの不自由ですね。
それだと誰かがかわいそうな気がします。
でも、その誰かがその不自由を自由だと思ってくれるなら、自由と思っている同士で、Win-Winかもしれません。
例えば、誰かを教育して「他人の自由のために尽くすことこそが、自分の自由なんだ」と思い込ませてみる、ということです。
洗脳ですね。
自分は自由だと思い込んでもらうのです。
しかし、洗脳する側は良いかもしれませんが、洗脳された側は不自由を自由と勘違いしているわけで、当然不自由ですね。
もう少し思いを巡らせてみると、洗脳している側が実はもっと不自由な気がしてきます。
なぜなら、彼は「自由でないといけない」と思い込んでいるからです。
不自由であることが怖いのです。
「不自由である」という自由を知らないのです。
「不自由である自由」なんて言うと、変な感じがしますか?
不自由を恐れて、自由になれないのです。
さて、ややこしい話になって参りました。
自由は一体どこにあるのでしょうか。
それとも、そんなものはどこにもないのでしょうか。
この宇宙は完璧です。
そこには、自由も不自由も、すべてが同時に存在します。
それは、コインの表と裏が同時に存在するということです。
夢と現実、個と全体、自分と他人、白と黒、右と左、善と悪…。
すべてが同時に存在します。
それは当然、頭で考えることはできませんし、言葉にすることもできません。
だから、そう「気づく」しかないのです。
宇宙とは「気づき」のことです。
そこには全てがあります。
僕らの狂った日常も、美しすぎる世界も、全てが混然一体となって同時に存在します。
僕らはその宇宙と離れたことがありません。
離れようがありません。
だけど、もう一つ、僕たちは強力すぎる力を持っています。
それが観念です。
僕らの持つ最初の観念は、宇宙から切り離された「自分」が存在するというものです。
そうやって「個」が誕生します。
観念が「自分」というものを生みます。
個の誕生は、「生」と「死」という観念につながっていきます。
人生の誕生です。
人生ができたら、そろそろ自由という概念も生まれてきそうですね。
まずは、生きることが自由で、死ぬことは不自由である、ということでしょうか。
生き続けるということに近づくのは自由で、死に近づくのが不自由、という思い込みです。
なんだかすごい話になっちゃいましたね。
自由についてのちょっと斬新な説、ということにしておきましょう。
また、そのうちに書きますね。
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