やってみないとわからないもので

先月から哲学ワークショップなるものをスタートしました。
僕がワークショップでやりたいことは明確にあったつもりでしたが、実際にやってみると心もとなく感じたりしています。

それで参考になればと思い、いろいろ哲学的な本を読んでみたりしています。
ところが、これがほとんど参考になりません。
世の哲学本の多くは、僕のやりたいこととちょっと違うのです。

僕がしたいのは、単に内観のきっかけを作ること、なのかもしれません。
言葉をこねくり回すことでもなければ、良い生き方を考えることでもありません。
僕は人に教えられる考え方なんてわかりません。
そんなことよりも、言葉にできない「気づき」に興味があるのです。

気づきは、知識の中にありません。
本の中にもありません。
ただ、自分の中にあります。
自分で自分を観察するしかありません。

そして、それはずっと行われてきたことです。
瞑想、座禅、修行、断食、禅問答、ヨガ…。
それらは、自分を観察するためのきっかけを与えるもの、ともいえます。
日常のあれやこれやから、ちょっと立ち止まって、自分を観てみるのです。
そんなことを生活の中で癖にしたらいいと思うのです。
生活の中で自分を観察するのです。

これは多分、禅寺での修行のカリキュラムと似ています。
修行僧は、まず座禅から始めます。
立ち止まって、自分を観察することを練習します。
自分観察が身についたら、その心持ちのまま日常生活を送ります。
掃除や洗濯、炊事をするのです。
身の回りの世話は先輩がやるということです。

実はそういうことって、僕らの日常生活でも普通にできます。
先に、自分を観察する練習をするのです。
その練習の仕方やきっかけは何でもいいです。
毎日瞑想する、といった方法もとてもいいですね。
僕のワークショップでは、それを対話によって実現できないかと考えています。

今日の文章を書いて、ちょっとスッキリしてきました。
少し焦っていたというか、ワークショップの進め方を迷っていたのです。
参加者の質問に答えていると、ただのいい話になっちゃったりして。
僕は自称・いい話製造マシンですから、どこかにありそうないい話っぽいことはいくらでも口から出せるのです。
でも、そんなことを聞いて気持ちよくなるワークショップには全然興味がありません。
どちらかと言えば、参加すると頭が混乱するような感じの方が、僕のやりたいことに近い気もします。
まぁ、混乱する必要は必ずしもないのですけども。

ご興味ある方は、いつでもご参加くださいませ。

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