気づきについて

気づいてしまえば簡単なことなのです。
だけど、気づかないうちは絶対に理解できないことがあります。
それは騙し絵みたいなものです。
おばあさんの絵とお姉さんの絵が同時にそこにあると知っている、気づいたことのある人にとっては、どちらの視点も行き来することができます。
だけど、これはおばあさんの絵だとずっと思い込んできた人に、違う見方があるよと言っても、なかなかわかってもらえません。
そもそも、おばあさんの絵に見えている、ということすら認識できない場合も多いです。
そんなときに、違う見方をする、ということを説明することすら大変ですから、お姉さんのことを話しても、その真意が伝わることはありません。

哲学ワークショップでは、言葉に表せない気づきを対話の中でどうにか表現できないかと試行錯誤しています。
うまくいくこともあれば、思うようにいかないこともあります。
ここでいう「うまくいく」とは、誰かが気づきを得るということです。
気づきの大きさは関係ありません。
小さな気づきで良いのです。
気づきという体験は、積み重なっていく感じがします。

気づいたとき、僕が言っていた言葉を思い出すこともあるかもしれません。
あ、むらもが言っていたのはこれのことか、と。
気づいたときには、それが気づきだとわかります。
だけど、おそらくその気づきを説明することはできないでしょう。
言語化しようと、それをつかもうとすると、するりと逃げていってしまいます。
まるで雲でもつかもうとしているようです。

だから、気づいた人は、これのことか、とはっきりわかります。
だけど、何かが変わるわけではありません。
何かが解決するわけでもありません。
そういうことも、その時にわかるかもしれません。
そして、なんだかよくわからないこの感じは一体何なんだ、と思うでしょう。

それをどうにか体験してほしくて、哲学ワークショップをやっています。
だけど、気づきがいつ起こるかなんて、誰にもわかりません。
哲学ワークショップに参加するからそうなるかはわかりません。
いろんなことをしても気づきが起こらないこともありますし、何もしなくても気づきが訪れる人もいます。
全然わからないのです。

気づき、気づきって言うけども、気づいたら一体何の得があるんだ、という人もいるかもしれません。
僕が哲学ワークショップなんてやり始めたのは、時代の要請です。
今、時代が変わろうとしています。
その時、気づきは必ず必要になります。

気づきから始まる生きる態度によって、社会は変わっていきます。
社会を作っているのは、仕組みやルールではありません。
今を生きる人々です。
一人ひとりの生きる態度をたくさん集めて俯瞰してみたとき、それを社会と呼んでいるだけだからです。

気づいてしまえば簡単なことです。
全然難しい話ではありません。
そして、先に気づいたからといって偉いなんてことも全くありません。
ゆっくりボチボチ、焦らずにという感じです。

あまりにも全ては繋がっていて、なんせ、僕らは初めからそれだからです。
ということに気づくのです。

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