僕らは生まれた瞬間から不自由です。
何せ、いつか死ぬのです。
死にたくなくても、死ぬのです。
そう思うと、とっても不自由です。
この世には重力があって、高いところから落ちてしまいます。
鳥みたいに飛んでいけません。
これも不自由です。
酸素がないと生きていけないから、魚みたいに水の中を自由に泳ぐこともできません。
またまた不自由です。
夢があっても、なかなか叶いません。
何なら一生叶わないこともあります。
なんて不自由でしょうか。
誰かは僕の言うことを聞きません。
誰かは僕の邪魔をします。
あぁ、不自由です。
僕らは生まれた瞬間から監獄の中にいます。
見えない監獄、見える監獄、いろいろです。
世の中のルールも、常識も、法律、倫理観、全てが僕らを縛ります。
世界を見渡せば、文字通り、いま監獄に捕えられている人もいるのでしょう。
だけど、実は僕らもそんな世界をすでに生きているのです。
そんな世界を「四苦八苦」と呼ぶわけです。
まさにその通りであります。
だとしたら、自由とは何でしょうか。
こんなあまりにも不自由な世界にいて、自由の意味とは何でしょうか。
少しくらい自分の思うようにうまくいったとしても、それは不自由という氷山のほんの一部に過ぎません。
この世界のほとんどの不自由は、僕らにはどうすることもできません。
少しの自由を求めても、圧倒的な不自由を前にすれば、自由の意味など吹き飛んでしまうようです。
だから、自由を外に求めても、いつかあきらめることになります。
どうにもできないことだらけだからです。
それは、なんだかネガティブな態度に映るかもしれません。
だけど、面白いのはここからです。
自由を諦めたら、次は、不自由さえも諦めるのです。
自由も不自由も、頭の中にあったのです。
それは観念でした。
全部自分が決めたことでした。
自由であることや不自由であることを自分で決めてもいいし、自分で決めることをやめてもいいということです。
それすらも自由。
実は、全部自由だったのです。
その自由は一番最初からありました。
ずっと、なんだか僕らに発見されるのを待っていたように。
僕らは最初の最初からオールオーケーだったのです。
自由は周到に隠されていました。
なんせ、それは自分自身だったということです。
そりゃ〜いくら外を探しても見つからないはずです。
自分がそれそのものだったのですから。
あらゆるすべては混然一体となってここに存在しています。
僕もあなたも、もちろんその一部であり、離れようもありません。
だけど、そこから一旦離れないと、それを認識することはできません。
一旦離れることを「不自由」と呼んでいるわけです。
そして、それを「観念」ということもできます。
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