大人のギフテッド?

前回に引き続き、自分観察日記です。
昔から自分観察は好きでしたが、最近またハマっていますね。
「大人のギフテッド」という強烈な本を読んだのがきっかけです。

ギフテッドという言葉は、もう一般的になりましたが、どんな印象でしょうか?
「なんかすごい子供たちがいるらしい」とか「突出した才能を持っている子供」というイメージでしょうか。
うらやましいと思う人もいるかもしれません。
だけど、その本を読めば、ギフテッドに対する印象はガラッと変わるでしょう。
ギフテッドになんて生まれなくてよかった、と。

こんなことを書いて、正確に意図が伝わるとも思えませんが、僕もギフテッドっぽいのです。
ただ、ギフテッドにはきちんとした定義がないので、すでにいろいろ微妙な話ではあります。

多くのギフテッドがいうように、ギフテッドは周りから理解されません。
僕もそうだったようです。
小さい頃から、理解されたという経験がなかったようです。
僕の人生を振り返ると、理解されたい、という強烈な欲求がいつも働いているように思います。
こうやって毎日書くことも、その一つでしょう。

ただ、理解されていないということすら、ずっと気づいていなかったのです。
特に十代の頃は、いろんなことがうまくいきませんでした。
なぜ周りのみんなは、そんなにうまくできるのか、まったく分かりませんでした。
そして、周りは僕のことをわからなかったし、僕自身も自分のことが全くわかりませんでした。
何も分からないままに僕は酒を覚えて、酩酊したまま二十年が過ぎました。

酔っ払っているときだけは、周りの酔っ払いと分かり合えた気がしたのです。
そのときだけ、友達になれた気がしたんですね。
酒で自分の才能を潰さないと、周りと合わせられませんでした。
でも、そんな生き方で満足できるわけもありません。
四十歳になる前に、酒をやめました。

断酒して一年経ち、二年経ち、僕の才能は戻ってきました。
考えずにはいられない、この才能です。
ひどい人は、考えることを止められない、というレベルらしいです。
大変でしょうね。
そういう人と比べれば、僕は趣味程度のものです。

どうも僕の人生は、わりと大変なものだったらしいのですが、「それが大変なんだ」ということに気づいていませんでした。
「どうも自分は普通じゃないらしい」と思っていただけでした。

今は、自分が特別に大変だとは全く思いません。
もっと大変そうに見える人がたくさんいます。
僕は、環境にも周りにも恵まれているなぁと思います。
優しい人も多いですし。

しかし、大変なことにも理解されていないことにも、ちゃんと気づいていなかった自分って面白くないですか?
僕はそういうことを思うと、ちょっと笑っちゃうのです。
そう、僕の人生を支配するもう一つの感覚があります。
それは、「自分の人生はどうもイージーだ」ということです。
難易度がイージーモードなんです。
なぜそんなふうに感じるのか分かりませんけども。
それでちょっと笑っちゃうのです。

そんなアンバランスでバランスをとっているのが、僕のパーソナリティーのようです。
合ってるかどうかは全然分かりませんけども、今日も自分観察日記でした。

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