自分観察日記のまたまた続きです。
どうも僕は、自分のことなのに、どこか他人事のような部分があります。
自分事でも他人事でも、どっちでもいいというか。
ま、全部が全部そう感じるわけではありませんけどもね。
そんなわけで、自分観察もはかどる、というわけです。
できたら、完全に自分の外部から自分を見てみたいとも思います。
もしかすると、子育て中にそんな気分になったりするのでしょうか。
子供がいないので分かりませんけども。
子供って、自分のDNAを含むけれど、自分じゃない独立した存在、と言えるのかもしれない、なんてふと思いました。
いくら自分観察しても、完全に外から眺めることはできません。
そこに「自分」という観念があるからです。
ま、物理的にも見えないし。
僕は自分で散髪しますが、「どこか違うところに目だけ移動できたら楽なんだけどなぁ」なんて思います。
自分を自分で見られると楽じゃないですか。
自分観察ということを考えてみると、誰かを鏡のように見立てることでしか、自分は眺められないのでしょう。
同じものを見ても、人それぞれに感じ方が違ったり、表現が違ったりします。
その差を眺めるということです。
その差から、他者や自分のことを振り返るということでしょうか。
ややこしい話ですね。
しかし、なんでこんなに自分のことを考えているんでしょうか。
暇なんでしょうか。
豊かな時代ですから、そんなどうでもいいことばかり考えているような人でも、生き残ることができます。
大変ありがたいことです。
物質的な豊かさがあるから、好きなことができるというか。
才能を発揮してもいいというか。
物質的に貧しいと、生きるために役に立たない才能にかける暇はありません。
豊かだからこそ、「才能のジグソーパズル」という世界を意識し直すことができるわけです。
そして、現在の豊かさにはいろいろ問題がありますが、それもみんなが才能を発揮する過程で解決されていくでしょう。
さて、自分観察の話でした。
いつも通り、違う話になってしまいました。
何の因果で、僕が「自分観察大好きおじさん」になっちゃったのかはよく分かりません。
だけど、それに興味があるのだから仕方ありません。
そして、それをできる時代に、たまたま生まれちゃったのです。
これもいつも書いていますけど、人類の多様性ってやつです。
何に興味があるのか、何ができるのかはそれぞれです。
どんな時代や状況になったとしても、多様性さえあれば、人類は全体としてそれに対応できるのです。
一ミリでもいいから、人類の役に立ちたいと思っています。
それは僕にとって、興味の赴くままに生きる、ということです。
自分で決める自由ということです。
そんな感じで、これからもぼちぼち生きていきたいと思っています。
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