何事もゆっくり焦らず、ボチボチでいいと思うのです。
いや、急いだり焦ったりも悪くありませんけども。
それもオールオーケー。
オールオーケーだから焦らなくてもいいし、オールオーケーだから焦ってもいいということです。
オールオーケーって便利な言葉ですね。
何かに気づいちゃった時、オールオーケーは気づきと同義になります。
ていうか、気づきと同義のものはたくさんあります。
ていうか、この世界、宇宙全体がそれと同義です。
全部が全部です。
気づいたとき、気づきます。
って変な表現ですね。
気づいても気づかなくても、どっちでもいいんだと。
この世界は全部自分がジャッジした結果でしかなかったと。
アダムとイブが知恵の実を食べる前の世界があると。
キリスト教では、その世界のことを天国というのでしょう。
天国と地獄は同時に存在します。
どこか別の場所にあるわけではありません。
それは騙し絵のようです。
同じ一枚の絵の中におばあさんとお姉さんがいます。
一度でもわかってしまえば、おばあさん目線もお姉さん目線もある程度切り替えることができます。
だけど、一度も気づいていないなら、話が噛み合わない可能性があります。
誰かはおばあさんについて話していて、相手はお姉さんについて話しているという状況です。
同じ土俵の上にいないというか。
文字通り話になりません。
そして、もう一つ。
そもそも、この世界が騙し絵であることになかなか気づけません。
この世界がおばあさんに見えている人にとって、この世界はおばあさん以外の何者でもないから、それがおばあさんであると認識する必要すらないのです。
要は、「この世界って、おばあさんに見えていますよね」と言っても、わからない、伝わらないのです。
当たり前、常識、思い込み、普通…そんなものと自分が一体化している状態です。
そんな風にいくつものハードルがあります。
聖書の言葉を借りれば、天国に行くのは針の穴を通すように難しいのです。
天国に行くとは、気づく、ということです。
そして、これも聖書の言葉ですが、赤子のようになる必要があるのです。
僕たちも昔は赤子だった時期がありました。
赤子が大人になるときに身に付けるのが観念です。
たぶん、観念を手放した大人のことを、赤子のよう、と表現しているのでしょう。
で、何の話でしたか?
ゆっくり焦らず、ボチボチでいいんじゃないかという話でした。
何事も早いほうが良いというのは観念です。
逆にゆっくりのほうが良いというのも同じく観念です。
どちらでも良いのです。
だから、オールオーケー。
簡単すぎて笑っちゃいます。
今日もこうやって文章を書きまくって、結局どこにも行きません。
どこかに行くのもいいし、行かないのもいいです。
オールオーケーで、僕らは最初の最初から自由なんです。
毎晩8時・むらもラジオ更新中〜
