未来の生き方の肝は、自分で決めるということです。
今まで、とにかく自分以外のものに決めてもらってきました。
自分以外とは、例えば普通とか常識とか過去の自分とか。
普通や常識が他者って、わかりにくいでしょうか?
過去の自分も、もう今は存在しないものです。
そんな風に言うと、ちょっとストイックな感じがしますか?
ただ、何もかも全てを決めなければならないということもありません。
自分で決めない、誰かに決めてもらうことを「自分で決め」ても良いのです。
要は、生き方に自覚的であることです。
そんなことを言うと、ますます混乱させてしまうでしょうか。
一体どっちなんですかと。
いやいや、それを自分で決めるのです。
興味がないなら興味がないで、それもまたいいでしょう。
僕が哲学ワークショップやプチビジネス同好会をしているのは、そういうことです。
自分で決める=未来の生き方を今から練習するのです。
そういうことに興味のある方はぜひどうぞ。
今までやったことのないことは急にできませんから、少しずつ練習するのです。
あんまり焦らなくて大丈夫です。
ま、今までやったことがない、ということがまずはなかなか腑に落ちないのですけども。
もし気が向いたら、断捨離なんてしてみるのもいいかもしれません。
多くの人が勘違いしていますが、断捨離とは、ものを捨てる・減らすことではありません。
断捨離は、自分で決める練習です。
結果として、ものを減らす選択に至る人がほとんどだから、確かにそういうふうに見えるだけです。
これもちょっとストイック過ぎる見方かもしれませんけども。
ものがそこにあるのは、いつか自分がそうしたからです。
それは過去の自分であったり、常識や普通がそうさせたわけです。
そして、その時はそう思っていた、そういう観念を持っていた、ということです。
そのものが必要だ、手元に置いておくべきだと思っていたのです。
そして、それにも理由があって、その理由のことを観念と言うわけです。
だから、身の回りのものを通じて、自身の持つ観念にアクセスできます。
ものと観念はイコールだからです。
ものが勝手に歩いてきて、そこに居座っているわけではありません。
そう、自分が決めているだけなのです。
過去の自分が決めたことは、まだ今の自分に必要でしょうか。
それをたまに精査したら良くないですか?
ずっと古いルールに従って生きる必要はないのです。
どんどん今の自分に合わせていけば良いのです。
人生には無限の可能性があります。
ただし、可能性を狭めるのも自分です。
自分の何が可能性を狭めるのでしょうか?
今、この瞬間にも、あらゆる可能性があるのです。
だけど、いつもと同じ、今までと同じ選択を僕らはしています。
惰性で人生は続いていきます。
それを性格とか、自分らしさとか、アイデンティティーとか呼んでいるわけです。
それは本当に今の自分に必要でしょうか。
それは本当に自分なのでしょうか。
あれ? 自分とは一体何でしょうか。
ゆっくりゆっくり考えてみてください。
少しずつでいいんです。
いや、大抵の場合は少しずつしか進みません。
あせらず、じっくりどうぞ。
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