哲学ワークショップなるものをやっております。
一般的な哲学とはちょっと違うかもしれません。
いわゆるいい話はありません。
議論もありません。
そんなことは家に帰ってからで十分です。
いつでもできる枝葉なんです。
いい話はありがたがられます。
僕は自称・いい話製造マシンなのであります。
そんなことは口を開けばいくらでも出せるのですが、そこに僕が哲学ワークショップをやる意味はありません。
喜ばれるかもしれませんが、やっぱりそういうことは家に帰ってからしてもらえば十分です。
僕の哲学ワークショップでは、いい話というところの「いい」とは何でしょうか、を問うています。
それがわからないのなら、世の中のすべての「いい」はわからないのではないでしょうか。
いい人、いい未来、いいこと、いい食事、いい生活、いい人生、いい政治、いい社会……。
もしも「いい」の意味するところが、自分の認識と違っていたら、すべてはひっくり返ってしまいませんか?
「すべて」とは、あらゆるすべてのことです。
みんな、この世の全員が「いい人生」を生きようとします。
そうしない人は一人もいません。
だけど、いい人生というところの「いい」とはどういうことでしょうか?
「いいは……いいだよ。そんなの、当たり前だ」と言うでしょうか。
だけど、みんな、その意味がわからないのです。
「いい」の意味のことです。
意味はわからないけど、それが「いい」だと「思っている」のです。
自分の中にぼんやりとした「いい」のイメージはあるんです。
でもよくわからない。
「いい」は「いい」わけですが、その意味はわかっていないということです。
こんなことは疑わないほうが幸せなのかもしれません。
人生も終わりに近づいて「俺の人生は間違っていた」なんて思っちゃっても、どうにもなりません。
いい人生を求めない人はいないのに、どうしてそうなってしまうのでしょう。
それは「いい」の意味を間違えていた、あるいは間違えてたのかも、と疑い始めたということです。
そうなるのなら、それを先に考えておいたらいいんじゃないでしょうか?
というわけで、哲学ワークショップなるものをやっています。
今日は「いい」の意味と表現しましたが、汎用性を高めて表現するなら「意味」の「意味」ともいえるでしょう。
言い方を変えれば、正しさの追求ということになります。
みんな正しく生きたいと思っているし、実は一人残らず自分の正しいと思う生き方をしています。
それなのに「俺の人生は間違ってた」なんて思う人も出てくる。
不思議じゃないですか。
正しいとは何か。
それは、あらゆる状況やタイミング、国や文化、時代と、そんなものが変わっても常に正しいことのことです。
それを「考える」のです。
その先に、というと語弊がありますが、気づきがあります。
気づきは、言葉で表せません。
完璧な正しさも気づきの中にあります。
それが「意味の意味」であり、「いいとは何か」であります。
ただ、この気づきというものが制御できないから困ったものなんです。
ワークショップをやるから気づくわけでもないのです。
マ〜仕方ありませんね。