僕らはいつも決断をしています。
小さな決断、大きな決断、いろいろです。
毎日は決断の連続で、人生は決断でできています。
何かを決めたとき、何かを選んだときには、選ばれなかった選択肢が必ず存在します。
だから、決めることは同時に、他の選択肢を捨てることでもあります。
決断は、自身の持つ善悪に基づいてなされます。
こちらの方が良いだろうと思われる方が選ばれます。
甲乙つけがたい時もありますが、そんな時でも判断して決断しています。
サイコロを振って決めるときでも、サイコロの目に従うのが善である、と決めているし、誰かの意見に従うときにも、誰かの意見に従うのが善である、と決めています。
だけど、未来になった時、その選択が良かったか、悪かったか、それはわかりません。
だけどだけど、僕らは常に良い方法を選んでいます。
むしろ人間は、良いと思うことしかできないようになっています。
そんなことあるだろうか、と思うでしょうか。
会社に行って、ちょっと変だなと思いながら仕事をしているかもしれませんし、毎日の自分の生活に違和感を感じているかもしれません。
それでも自分が良いと思うこと、自分が正しいと思うことを常に選んでいます。
仕事の内容が世の中にとって良いことだと思えなくても、家族のために働き続けることが良いことであると思って、仕事をするという判断をしているわけです。
そこにあるのは、ただの優先順位の差であって、最後は自分の正しいことを常にしています。
そんなふうに、僕らの決断は行われています。
そして、その決断でもって人生はできています。
決断は、自身の中にある善悪の基準によって判断され、その基準のことを僕は観念と呼んでいます。
実は、人生とは全部、観念なんです。
ある決断が、気づきからつながるものであっても、それは同じです。
気づき——内なる自分、と呼んでもいいでしょう。
内なる自分は、瞬間の中にいます。
内なる自分に従っても、次の瞬間には、その決断は過去となり、観念となります。
人間は観念によってしか生きられず、人生は観念のあるところにしか存在できません。
時間の流れが内なる自分を過去のものにします。
過去は経験となり観念となります。
観念は、未来の判断、決断のもとになります。
そうやって、観念が人生の全てを決めていきます。
時間の流れはどこにあるでしょうか。
時計はカチコチと進んでいるし、カレンダーは毎日進みます。
太陽は今日も昇り、地球は好転を続けます。
時間の流れの根拠はそこら中にあるように思えます。
だけど、それでも問います。
時間の流れはどこにあるでしょうか?
それは、気づきに内包されたものでしょうか。
気づき、内なる自分は瞬間です。
時の流れが、それを観念に変えます。
次回は天国と地獄の話をしましょう。
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