決めないことも、「決める」こと

自分で決めるということをしていくと、だんだんと普通じゃなくなっていく、ということが起きます。
普通の人とちょっと違うことを考えて、違う生活様式を持つようになります。
ちょっと変わった人になっていくわけです。

一方で、周りと同じ道を選ぶ人もいます。
自分で決めないと決める人たちです。
むしろ全体で見ると、そういう人の方が多そうです。

昨日は「自分で決めることの重要性」、それが勝手に豊かな未来を作ってしまうということを書きました。
そのとき、自分で決めない多くの人はどうなんでしょうか?
それは善でしょうか、悪でしょうか?
豊かな未来の足かせ、お荷物なんでしょうか?

自分だけがどんどん変わってしまうと、どうしても遅々として進まない周りのことを、そう感じてしまう時は来ます。
だけど、どこまでも「自分で決めること」が重要なんです。
周りと同じようにすること、普通に生きること、自分で決めないこと。
それらも「自分で決める」ということの中にある、一つの重要な選択です。

自分で決めない多くの人が「自覚的でない」——要は、自分で決めていないことに気づいてない——というのは、残念ですが、それもただのタイミングの問題です。
必ず、いつか「自分で決める」ことになります。

結局、自分にできることしかできないのです。
自分で決めることも、自分で決めないことも、それ以上でもそれ以下でもなく、その言葉通り、ただそうなんです。

誰かを責めることはできません。
何かを教えてあげようと、声をかけることも非常に難しいです。
だから僕は、ずいぶん長い間、思っていることを言ってきませんでした。
だけど、去年の夏ごろから本気で話すようになりました。
少なくともこのブログは、かなり本気で書いています。

それも、結局、そう決めたってことです。
僕は、思っていることを形にしようと、決めたんです。
それ以前は、思っているだけにしようと決めていたわけです。
どちらにも良い悪いはなくて、ただのタイミングです。

だから、「好きにしたらいいじゃん」って、突き放したような発言になっちゃうんです。
みんな既にやりたいことをやっていて、やりたいことができていないなんて悩んでいるとしても、それも自分でそう決めているに過ぎないのです。
そして、そう決めているのは「タイミング」のような感じがします。

自分じゃどうにもならないタイミングというものがあります。
いつタイミングが来るか、全然わからないのです。
それは運命として決まっているようにも見えるし、そうでもないような感じもします。

最後には「オールオーケー」とか「大丈夫です」としか言いようがないというか。
難しいややこしい話を散々したあげく、そんなところに戻ってきてしまう。
だから笑っちゃうのです。

毎晩8時・むらもラジオ更新中〜

目次