わからなさを感じよう

「わからないことがわからない」とよく言いますけども——
何かが“わかる”ことよりも、“わからないことがわかる”ほうが、よっぽど難しい気がします。

なぜなら、何かがわかった時、その対象は一つだけ。
でも、「わからないことがわかる」とき、その対象は無限だからです。

見える範囲が限られているから、つい“わかった気”になってしまう。
それはまるで、お釈迦様の手のひらから出られない孫悟空みたいなものです。
でも、それも実際に経験してみないと、わかりません。

そういうのは、ただ“タイミング”という感じもします。
その時その時で、自分が受け入れられる範囲は決まっているんです。
タイミングが来れば、その範囲は自然と広がっていく。
不思議なものですね。

それは、まるで最初から決まっているような感じもする。
運命ってやつですか。
でも同時に、自分で選んでいるような感じもある。
自由と不自由が、同時にそこにあるような。
やっぱり、不思議です。

この世は、不思議です。
いや、「この世」と言ってしまうと、なんだか範囲を限定してしまうような気がします。
とにかく——不思議。

こういうのを、摩訶不思議と言うのでしょう。
自分は全然わからないんだ、としみじみ感じている時の、あの心境。

新しい知識を得て、何か悟ったような気になることもあります。
みんなそうです、僕もそう。
それは、誰もが通る道なんでしょう。

人間が勝手に成長していくように。
季節によって植物が自然に育っていくように。
勝手に、進んでいく。
それはすごく、自然なことです。

植物の成長スピードは、それぞれ違います。
違っているからこそ、それぞれに役割があります。
みんなが一斉に育ったら、何かあった時に全滅してしまうかもしれない。
だから、「早い・遅い」に善悪はありません。
早いほうが偉いとかない、ってことです。

みんなが補い合って、みんながスペア。
スペアなんて言われると、ちょっと嫌かもしれませんけど。
だけど、みんながスペアなら、全員が特別ってことでもあります。

ところで、僕の文章ってちょっと読みにくいと思うんです。
それは、接続詞をあまり使わないから。

前の文と後の文が、どういう関係かを示すものがあまりない、ということです。
接続詞は「次の文はこういう方向へ行きますよ」という道案内みたいな役割があります。
でも、同時に、次の文の意味を決定づけてしまったりもするから、使いにくいのです。

言葉にはたくさんの意味があります。
少なくとも、表と裏がある。
ダブルミーニング、とでも言いましょうか。
僕の文章は、言うなれば、二つの観点から見た世界を、行ったり来たりしています。

そんなわけで、ややこしいことを書いています。
書いても書いても、わからないことだらけ。
不思議な感覚は、ずっと続いていきます。
まさに、それは摩訶不思議アドベンチャー、という感じ。
いや、ふと、ドラゴンボールを思い出しました。

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