前回、摩訶不思議なんて言葉を使いました。
それは不思議の謎です。
不思議なんだから、謎なのは当たり前かもしれませんけども。
だけど、不思議を探求するとやっぱり謎で、摩訶不思議とでも言いたくなります。
なんだか、抽象度マックスのポエムですいません。
だけど、この不思議だなぁという感覚はすごく大事だと思うのです。
不思議をいつも心や頭の片隅に置いておくのです。
そして、たまに眺めてみたりするのです。
たまに不思議をたどってみるのです。
不思議をたどる、その先にはまた不思議が続きます。
なんのこっちゃ、という感じでしょうか。
もしかしたら、探求する先には、答えがあるべきだ、答えがないものを探求する意味はないと、どこかで思っているのかもしれませんね。
それもまた悪くありません。
そういえば、言葉なんてものもすごく不思議です。
言葉の意味はどこにあるのかと、僕は思ってしまうのです。
例えば、辞書を引きましょう。
「北」という言葉を引いて、南の反対と書いてあったとします。
「南」ってなんだと思って、今度は「南」を引いてみると、北の反対と書いてある、みたいなことです。
辞書の名誉のために、そんなふうには記載されていませんけども。
北も南もわからないのなら、結局どっちもわからないわけです。
そんな風に、言葉の意味は数珠つなぎになってどこまでも続いています。
その先、その大元は一体どこにあるんでしょうか。
その大元のことを僕は気づきと呼んでいます。
気づきとは、一瞬のことです。
気づきがあったと認識したときには、それはもう過去のものとなっています。
僕らがいつも認識しているのは、常に気づきとは違うものなんです。
気づきのことを「いま」「ここ」と表現する人もいるでしょう。
それは瞬間であり、永遠でもあります。
二つの概念が溶けて混ざって、だけど同時に存在する。
二つの相対するものが同時に存在する。
裏と表も、北と南も、同時に存在する。
それはまさに無限の世界です。
だけど、僕らは同時に有限の世界を生きています。
無限の世界と有限の世界が、目の前に同時にあるんです。
そして、有限の世界を作っているのは、一人ひとりの観念です。
観念がないと、この世界の半分——有限の世界は存在できないのです。
無理して観念を削ぎ落とす必要はありません。
落としたかったら、落とせばいいですけども。
自由です。
すべては自由です。
すべてとは、あらゆるすべてです。
いつも通り変な話になりました。
何の話でしたっけね。
摩訶不思議という話でした。
僕はいつも不思議をたどっていって、いろいろ忘れちゃうんですよ。
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