宗教が伝え損ねたもの

このブログをよく読んでくれている方は、お気づきかもしれません。
いろんなもののことを「それは気づきです」と言っています。
昨日は、言葉の意味のことを気づきと言いました。
言葉の意味といっても、辞書に載っているものではなくて、辞書には書けない言葉の不思議のことです。

僕はいろんなことを気づきと呼んでいます。
宇宙は気づきでできています。
気づき以外の成分ではできていないというか、なんて散々書いてたような気もします。

気づきは瞬間であります。
そこに時間の流れはありません。
時間の流れなど必要ないというか。
時間の流れって、あってもなくても良いのです。
僕らはそれをあるように見えるし、あるように感じています。
だけど、実際にはそこにあるのは「変化」であって、時間の流れではないかもしれません。
「今」という瞬間が、ずっと変化しているだけと言っても良いのです。

いろんなもののことを気づきと表現してきました。
何のことをそう表現したか、ぱっと出てきませんが。
なぜいつも散々書きまくっているのに出てこないのか、不思議に思うかもしれません。
それは普段、僕らは、気づきと対極の世界を生きているからです。
観念で作り上げた世界です。

少し前に、天国と地獄ということを書きました。
天国と地獄というのは、便宜上の言い方です。
表と裏とか、何でもいいです。
天国が気づきの世界、地獄が観念の世界です。

それは、キリスト教の言うところの天国と地獄です。
ただ、死んでから天国や地獄に行くわけではありません。
生きているということ、それ自体が観念の世界の見方であり、観念がない世界のことを死、天国と表現しているだけのことです。
ここでは寿命が尽きて、人生が終わって死ぬことの話ではありません。

仏教でも似たような表現がありますね。
極楽とか地獄です。
それも同じです。
死んでからそういう世界に行くわけではありません。

まぁ、死後の世界のことは僕にもわかりません。
だけど、キリスト教も仏教も解釈を間違えています。
歴史上ずっと間違えています。

実はいろんな宗教が、同じようなことを言っています。
それは気づきのことです。
キリストもブッダも、文章を残しませんでした。
気づきは、結局言葉で表せないからです。
だけど、後に弟子たちが文章を作ってしまった。
そして、後の人が文章を解釈してしまった。
文章によって伝わるものって、すごく少ないのです。
LINEとかでも伝わりにくいなぁってことあるでしょう。

また何の話かわからなくなりました。
そうそう、気づきですよ。
気づきは面白いですよ。
興味のある方は、心のどこかにちょっと留めておいてください。
そのうち気づく時が勝手に来ますよ。
求めよ、さらば与えられん、なのです。

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