気づきは言葉にできません。
どれだけ書いても書いても、一ミリもその真髄にはたどり着きません。
だけど、それをどうにか表現したくなる……不思議なものです。
実は、すべてが気づきを表現するためにあります。
自分という存在、人生、幸せや不幸せ……。
あらゆるすべてです。
それを表現するために、僕らは生まれています。
なんだか宗教チックな書き方になりました。
気づきという神様に対する礼賛という感じでしょうか。
いや、多分、諸々の宗教の始まりって、それじゃないのって思ってますけども。
言葉で表現できない、つかめそうでつかめない「それ」を、どうにか表現して誰かに伝えたいのです。
言葉じゃなくても、例えば絵画で、写真で、歌で、音で、ダンスで、祈りで、生き様で、それを表現しようとします。
つまり、その表現は「人生そのもの」です。
人生とは、気づきの表現なんです。
これは、「人生が気づきの表現であるべき」という話ではありません。
「初めからそう」という話です。
気づいていても、気づいていなくても関係なくて、初めからそうなんです。
僕らは気づきから切り離されました。
いや、自ら望んでそうなったのでしょう。
ただ、一つのもの——宇宙とかワンネスとか言いますが、それだけでは「それ」を見えないでしょう。
どれだけおしゃれしても、他人の目がないのなら、それは意味がないでしょう。
無人島で一人で暮らしておしゃれはするでしょうか?
この世界に境界はありません。
それは、他人の目がないということ。
僕とあなたの間にも、よくよく見れば境界などありません。
だけど、僕は僕だと思っているし、あなたはあなただと思っています。
その観念が——ここでは境界のことです——他者の目を作ります。
宇宙という自分自身を、他人の目で眺められるわけです。
宇宙には、いろんな姿があります。
喜怒哀楽、あらゆる感情・経験がそこにあります。
それを僕たちは、人生で経験します。
宇宙という自分を眺めているのです。
わけがわからない文章かもしれません。
だけど、幸せは不幸せがないと認識できないことと同じです。
宇宙とは、境界のない一つのものです。
どこまで広がっているのか全然知りません。
その宇宙の一部に、僕やあなたもいます。
僕は僕だと思っているし、あなたはあなただと思っていますが、実際には宇宙の一部というよりも、宇宙そのものです。
境界がないからです。
だけど、同時に、やっぱり、自分は自分だと思っています。
そう思うことによって、宇宙という自分自身を客観的に眺められるわけです。
僕らはそれを表現しているのです。
この文章みたいに、それのことを直接書くのは、ネタバレでルール違反かもしれませんけどね。
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