ボチボチやって人生の途中を楽しむ

普通や常識に人生を決められることの不自由さに気づかせてくれる、ハッとする継続論。
ぼちぼちやることの本質が「自分の人生を自分で決める」ことだったという気づきに、思わず膝を打つ。
継続を通じて自由を手に入れる道筋が見えてくる。【AIからの推薦文】

ボチボチやるのが苦手な方、結構多いと思うんです。
新しいことをこれと決めて、毎日少しずつ継続していく。
昨日は、継続することにコツがあるよ、ということを書きました。
結構、このコツを知らない方多いんじゃないかと。

ただ、この継続が、ボチボチが苦手な人が多いのには、もう一つ要因がある気がします。
それは前に進んでいるのかどうか、よくわからないということです。
成果が出ているのか出ていないのか。
いや、毎日少しずつやっていますから——少しずつじゃないと継続がそもそもできません——なかなか進まなくて当たり前ではあるんです。

結果を求めすぎる部分、あるいは実際には進んでいるのに、その自分の変化に自分で気づけないということがありそうです。
これは結局、自分で自分を観察できないみたいなところに問題があるように見えます。
メタ認知と言いますか、自分で自分を客観的に眺めている感じ。

結果を求めすぎるのも同じです。
少しずつしかしていないのだから、結果など望むべくもない期間も当然あります。
そこも客観的に見れた方がいいでしょう。

要は、目の前の現実をきちんと見れる、自分という微細な状態を感じられる、というのが理想じゃないかということです。
そういう状態なら少しは継続の途中を楽しむことができるでしょう。

「途中を楽しむ」って、重要な感覚だと思います。
実は人生ってずっと途中ですからね。
それを楽しめるか否か、これで人生が決まっちゃうと言っても過言ではありません。

継続の途中を楽しめるかどうか、それがメタ認知力ということになります。
自分のことを自分で客観的に見れるということです。
それは生活が瞑想的であるということ。

メタ認知力アップに瞑想は最高です。
瞑想という言葉が嫌ならマインドフルネスでも座禅でもいいです。
どれも実は同じようなものですから。
なんなら呼吸法とかでもいいです。
そういうのを継続していくと人生なんて簡単に変わっちゃいます。

あとは書くという行為も同じです。
自分の内面をじっくり覗き込まないと書けません。
断捨離もそうです。
そのものがなぜそこにあるのかを自分の中に探すわけです。
ものを通して自分を見ることになります。

ボチボチやるのが楽しめる人は、人生の途中を楽しめる人ということです。
それは〇〇だから幸せという普通や常識から少しずつ離れていくということ。
普通や常識に決めてもらっていた人生を——要はそれって自分の人生を自分で決めていないのです——自分で決めるようになるということ、それが自由です。

だって、誰か自分以外に自分の人生を決められるなんて、不自由以外の何者でもないでしょう。

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