常識や普通に従うことの功罪を、バランス感覚をもって論じた知的エッセイ。
「省エネでいいんですけどもね」という一言に、著者の冷静な現実認識がにじむ。
人生が案外変わらない理由を、思考パターンの固定化という観点から読み解く洞察が見事。【AIから一言】
僕らは意外と不自由に生きています。
自分が思うほど——いやそもそも思ってもいないわけですが——自由ではないということです。
今日はそれはどういうことかを書いていきますが、半分どうでもいい話でもあります。
この世界には2つの観点が同時にあって、その片方の観点から見た意見に過ぎないからです。
だから「半分」どうでもいいのです。
ちょっと余談ですが、半分どうでもいいのだけど、それは2つの観点を認識できて、かつそれなりに意識できるのが前提です。
だけどそんな人はなかなかおりません。
というわけでこんなブログを書いているわけです。
だから究極的にはどうでもいいのだけど、現状多くの人にとっては重要な話です。
だけどだけど、何を重要と思うかは人それぞれでありまして、ご興味ある方はどうぞという感じでもあります。
またつまらないことを書きました。
本題に戻ります。
みんな意外と自由じゃないという件でした。
僕、目的地をすぐに忘れちゃうタイプなんです。
今日の話題はどうも言語化が難しい。
難しくて横道にそれたがっているようです。
自由とは自分で決めているということです。
逆に不自由とは自分で決めていないということ。
いやいや結構自分で決めてますよ、と思う人が多いだろうけども、よくよく考えるとそうでもありません。
僕らは知らないうちに決めてもらっているんです。
それは脳みその省エネ機能でもあります。
当たり前のことは考えないようになっているんです。
では、「当たり前のこと」には何が含まれるか。
そこには常識とか普通、そんなようなことが含まれます。
これは逆に言うと、常識や普通にある程度決めてもらっているということです。
無意識のうちに知らない間に決めてもらっているんです。
このことを「自分で決めていない」と表現しています。
だけど、常識や普通に従うことがそんなに問題なのかと思われるでしょう。
この辺りの認識のことをもう少し掘り下げます。
常識や普通って、いつか小さい頃に教えられたとか、大人になってから気づいたとか、いろいろあるでしょうが、過去にそう決めたことなんです。
だから、過去の自分が書いたプログラム通りに動いているのが今の自分ということです。
でも、過去と今は違います。
同じ自分である必要は全然ないのです。
それなのに、ずっと過去に決めたことでもって生きているわけです。
もちろん全部が全部を普通や常識に決めてもらってはいません。
だけど常に目の前には無限の可能性イコール自由があるのです。
その大部分を無意識のうちに普通や常識によって排除して、ほんのいくつかの選択肢から選んでいます。
まあ、省エネになっていいことでもあるんですけども。
だから、意外と不自由なんじゃない?ってことなんです。
人生って案外変わっていかないものですが、その要因もここにあります。
いつも思考や行動パターンが同じなんです。
そして、そのパターンはいつか過去に自分で決めたものである、ということです。
続きはまたそのうちにしましょう。