人生とんち劇場

ここのところ、自由ということについて書いてきました。
なかなか言語化できないかと思っていたんですが、やっぱり書くことの凄さといいますか、書きながらわかってきたという感じがします。
いや、本当にわかっているかは分かりませんけども。
少なくとも、とっちらかった頭の中は整理されました。

何について語っても、結局また観念の話に戻っちゃうんです。
僕はよっぽど観念というものが好きなんでしょうか。
どんな話でも、観念の話に持っていけちゃうのです。
いや、僕がそう持っていっているわけでもないと思うのですが。
まぁ、観念おじさんとでも呼んでいただけるとうれしいですね。

自由も不自由も、観念でした。
あぁ、僕らはよっぽど「観念せえや」ということでしょうか。
生まれてこの方、物心ついて以来、生きるということはこの「観念する」ということに向かっているようです。

それは、人生をかけたとんちであり、引っかけ問題であり、騙し絵であり、コメディであります。
最後の最後でどんでん返しが起こる映画の宣伝文句のようです。
「あなたは、このトリックに気づくことができるか?!」と。

哲学ワークショップなんてやっておりますけど、難しい顔してやってても仕方ないのです。
難しいことを言うと仕事してます感があって、気持ちよくなっちゃうんでしょうね。
もうタイトルを変えたほうがいいかもしれません。

「人生とんち劇場」とか、「気づいちゃってすってんころりん」とか、「君は騙し絵の中にいる」とか…。
あ、それはナイスアイディアかもしれませんね。
そうだ、毎月おかしな副題をつけてみることにします。
これはぜひ、お楽しみにどうぞ。

そんなことをつらつらと書いていましたら、自由とか不自由とか、どうでもいい気分になってきました。
そうそう、僕らは初めからやっぱり自由なんです。
自由も不自由もないくらいに自由なのです。

全部同じなんです。
幸せもそうです。
それは、幸せも不幸せもない「幸せ」ということです。
生きていることもそう。
生きているも死んでいるもなくて「生きている」感じ。
自分もそう。
自分も他人もないような「自分」ってことです。

「幸せ」も「生きている」も「自分」も、そうでない状況がないとわからないのです。
でも、そうでない状況って、無い、のです。
無いから、僕らは自我というものを思い込んで、観念でそれらのある状況を作っちゃったのです。
それが不自由な人生の始まりでした。

でも、そんなもの——自由も不自由も無いのです。
無いのだけど、初めからあるのです。
あるというよりも、僕らがそれであるということです。
だけどそこでは「僕ら」という言葉も存在できないから、言葉で説明できないだけなんです。

とってもわかりにくいですねぇ。
個人的に、今日のヒットは「人生とんち劇場」というタイトルです。
来月からの哲学ワークショップは、変な副題を考えることに励みたいと思います。
これについては、すごく頑張りたい気分です。
お楽しみにどうぞ。

毎晩8時・むらもラジオ更新中〜

目次