昨日の続きです。
最後に宿題が出てましたが、どうでしたか?
正しいとは何か、前もって考えておかないと、人生の最後に俺の人生は間違ってた、なんて気づいても取り返しがつきませんよ、と僕は主張していて、その主張に含まれる観念は、どんなものがあるでしょうか、という宿題でした。
僕の主張は一見、真理のように見えるというか、いわゆる良い話というか。
含むところがないような話に見えます。
だけど、そんなところにも観念は潜んでいます。
例えば、僕の主張に含まれる観念は、こういうものです。
人生は、間違っているよりも正しい方が良い、という観念。
え?そんなの当たり前じゃないですか、と思うかもしれません。
そんなの常識でしょ、そうじゃない人いるの?って。
だけど、僕の主張はその観念がベース、下敷きになっています。
言外にそれを含むということです。
今日はこの観念について考えてみます。
それは本当に本当なのかと。
本当に正しい人生は善で、間違った人生は悪なんでしょうか?
僕は、どうも観念マニアなのです。
いつも自分の考えや思考、文章なんかでも、その背後にある観念を観察しています。
だから、自分の発言やその言葉が、どんな観念を元にしているかを、常に思っているのです。
それはちょっとした特殊技能かもしれません。
ついでに文章の途中で、その背後にある観念が切り替わるのもわかるのです。
前回の話の通り、観念から見れば、あらゆることが正しくなります。
観念を少しいじるだけで、どんな主張でも正しいものにすることができます。
どんなことでも立場を変えれば、正しいものにすることができるんです。
なんなら僕のことをミスター屁理屈、屁理屈キングとか呼んでいただいて結構です。
立場や見方、どんな思考をするのか、そういうのをどんどん切り替えていくのです。
書いてある文章が常に正しくなるように、言外に設定を作れば良いのです。
そんな状況なら、それも正しいと言えるかもね、ということです。
それが観念です。
だから観念は、あらゆる場所に潜んでいます。
潜んでいるというより、それはコインの表裏みたいなものです。
コインに表しかない、って事は絶対にありません。
必ず裏があります。
裏を削り取ったところで、それは模様が見えなくなっただけで、裏というものがなくなるわけではありません。
それと同じで、何かの主張や考えや行動や、あらゆるそんなことには必ず言外、観念がくっついています。
じゃあ、「本当に正しいこと」って、一体何なのでしょうか。
正しいとは、状況も、時代も、文化も、国も、人も、タイミングも、思考の癖も何もかも関係なく、いつも正しいことなのです。
観念によらず、正しいこと。
変幻自在に変わることのできる観念に全く関係なく、正しいのです。
それが「正しい」ことです。
そんなことがこの宇宙に存在するのでしょうか。
それが在る、のです。
そんな「正しい」ことを探求することを「考える」というのです。
そういう意味で、ほとんどすべての人は考えたことがありません。
考えるということが何かもわかりません。
みんな考えているようで、無数の観念の上で「思っている」だけなのです。
僕らの人生は観念でできています。
その観念が悪いわけではありません。
「正しい」と思っていることと観念は常にセットです。
コインの表裏みたいなものです。
観念をずっと見続けることで、急に違うものが見えてくるのです。
それは騙し絵みたいなもので、一度わかってしまえば、難しいことではないのです。
今日はちょっと散らかった文章になってしまいました。
散文、失礼しました。
精進します。
あ、そこに散文は悪だという観念が見えますね…笑。

