問題の無限玉ねぎ

瞑想は、観察する癖をつけることにつながるかもしれません。
自分を観察する練習になるというか、自分というものに対して自覚的であるというか。
普段は無意識のうちに、すべてが流れていくのです。
それが悪いわけではありません。
人間の体はとても省エネにできていて、同じことは意識しなくてもできるようになっています。
そんな省エネモードに落とし込んでしまったことを、もう一度、あえて意識してみるのです。

自覚的であるとは、疑うことでもあります。
すべてに意識的であり続けると、疑い深くなるのです。
「疑う」という言葉には嫌なイメージがあるかもしれません。
「信じる」と言うと、逆にポジティブで良いイメージでしょうけど、それは多分、そう思わされているだけです。
だって、何でもホイホイ信じてくれる人たちの方が管理しやすいと思いませんか。

疑うということも、なるべくフラットに捉えたいものです。
そして、疑い深くなるといって、誰か他人を疑うわけではありません。
まぁ、それもあるでしょうが、疑う先は基本的に自分です。

目の前の問題を疑うのではなく、目の前の問題を問題だと思っている自分、を疑うのです。
その問題を問題たらしめているのは自分だからです。

問題の本質は、問題そのものにはないのです。
そして、問題自体が悪い、というわけではありません。
また、問題を発生させているのが自分だとして、その自分が悪いわけでもありません。
もし、自分のせいでこんな由々しき問題が!と思うなら、それもまた自分の捉え方次第だということです。

どこまでいっても同じなのです。
玉ねぎの皮みたいに、剥いても剥いても玉ねぎなんです。
この世は無限玉ねぎです。
いつかどこかで諦めるだけです。
その諦めるってことを、明らかに観る、というわけです。

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