世間一般で「こだわり」というと、なんとなく良いことという印象でしょうか?
こだわりのプリン、こだわりの野菜、こだわりの家、こだわりの生き方…。
いろんなこだわりがありますね。
僕も田んぼを無農薬でやったり、はさ干しをしたりしているので、こだわりの米と思われているかもしれません。
ま、確かにこだわりとも言えるのですが。
だけど、僕としてはこだわりというものを特別良いとは思っていないのです。
どんなことにもメリット・デメリットがあります。
こだわりにも良い部分、悪い部分があるはずです。
例えば、こだわりを言い換えれば、融通が利かないとか、頑固ともいえるかもしれません。
それは「自分はこうだ」と決めてしまって動かさないということです。
僕らには無限の選択肢があるはずです。
だけど、こだわりによって、いつもの選択肢以外は見えなくなってしまうのです。
なんとも不自由な感じがしませんか。
これは「決める」という行為の一つの側面です。
何かを決めるとき、他の選択肢は捨てているのです。
なんとも不自由なものです。
だけどだけど、「決めること」は自由です。
自由に決めればいいのです。
だけど、決めることは同時に不自由でもあります。
しかも、こだわりがあるなら、毎回同じ選択をするわけで、なおさら不自由な気もしてきます。
自由になりたいのに、自由に決めた瞬間に、他のものが選べないという不自由を生んでしまう——矛盾です。
どこまでいっても、人間は不自由なものです。
自由は、不自由と同時にあるのです。
困りましたねぇ。
これでは、自由になんかなれっこありません。
言うなれば、「俺は自由に生きる」と高らかに宣言したその瞬間に、「不自由でいる自由」を捨てているわけです。
なんとも情けない宣言のような気もしてきますが、そんなことをいうのはただの屁理屈おじさんでしょうか。
何せ、この世は全部矛盾なのです。
コインの表も裏も、同時にあるような世界なのです。
もともとそうなんです。
ただ、自分で、そう見えないように、矛盾しないように、自分だけのストーリーを持っているにすぎないのです。
このストーリーが、一人ひとりの持っている観念です。
なんだか久しぶりに書いた気がします、観念です。
以前から読んでくれている方は、おそらく耳タコの観念です。
そうです、僕は観念おじさんです。
さて、今日は何の話でしたか。
いつも分からなくなります。
多分、僕は目の前の現実みたいなものにちょっと興味が薄いんでしょう。
すぐに忘れて、どこかへ行ってしまうところがあります。
だけど、目の前の現実は大事ですね。
現実から逃げてはいけませんね。
いや、現実から逃げるのも自由だから、「現実を見ろ」というのは不自由かもしれませんね…。
さぁ、今日も無限ループに入ったところでお開きです。
結局どこにも行かない話なのですが、「どこかに行く」というのは自由ですか、不自由ですか、という話でした。
ま、どっちでもいいんですけども。
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