久しぶりに外でお風呂に入ったんです。
昔からお気に入りの小さな温泉がありまして、湯船はもちろんシャワーまで源泉かけ流しで、余計なものが入っていない感が素晴らしいのです。
僕の中では、奇跡の温泉ということになっています。
別に大げさなものではありませんが…。
家で入る風呂もいいんですよ。
うちの水は飲用から風呂から全部、井戸でまかなっています。
この村には上水道が来ていませんので。
だから、お風呂も井戸水をボイラーで沸かすわけですが、これがまたよろしいのです。
今では薬を全然使わないお風呂に入れるなんて、レアな経験ですから。
毎日そんなお風呂に入っていると、普通の温泉や銭湯が薬臭く感じてしまいます。
それであんまり外に風呂に入りに行く気もしないのですが、例の温泉はそんなことが全然ないのがとても良いのです。
ここまでの話は、今日の話とはあまり関係ないのですが、本題に入ります。
銭湯なんかに行くといつも感じることがあるのです。
それは、自分が他人を見るときに外見や何かで判断しているということです。
湯船に浸かっているときに、周りのおじさんたちをちょっと観察したりします。
どんな人かなぁとか思ったり、思わなかったり。
話しかけてくるおじさんもたまにいます。
そんなふうに、風呂の中で裸のおじさんたちを見ている分には何も思わないんですが、問題はその後、脱衣所に出てからです。
さっきまで裸だったおじさんが服を着出すわけです。
その時、服という「意味」をまとうのです。
裸ならそこに意味を感じることは特にありません。
だけど、金のネックレスをつけたり、服のセンスが何とも言えないものだったりすると、「このおじさん、意外とそういう感じだったのか」なんて思ったりします。
さらに駐車場に出て、同じおじさんがすごい車に乗ってたりして、そこでまた思うところがあったりなかったり…。
もちろん、その人の服や装飾品、乗っている車から何かを感じているのは僕の方なのです。
おじさん側に意味のラベルは貼られていません。
でも、裸なら何も思わないのに、服を着たり、車に乗ったりすることで、その人の社会的な何かを勝手に感じてしまうのです。
さっきまで風呂の中では何も思わなかったのに。
いかに自分が普段からいろんなものに対して、意味のラベルを勝手に貼って思い込んでいるか、よくわかる気がします。
そういうことを面白いなぁと思うのです。
おじさんにも、服、金のネックレス、車にも、本質的に意味はありません。
だけど、僕らは例えば、金のネックレスをしているおじさんをちょっと怖いなぁと思ったりします。
乗っている車によっても、そう判断することがあります。
そういうのを一旦なくすことを、「裸の付き合い」と言うのかもしれませんね。
なかなか普段からそうはなれませんけども。
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